記憶が飛ぶほど濃厚な半年について
ハテブを更新していなかったこの約半年、いろいろあったのだけれど、そのいろいろのひとつについて少しだけ書きたい。
まず、父はギャンブル依存症で母は父に共依存している。私の記憶の限り、私が3歳のころからずっとである。両親は会社経営という名の自転車操業を続け、奇跡的に私と兄&姉の子供3人を育てた。そのことには生粋に感謝している。でも、3人とも個々に傷は癒えていない。
厚生労働省が運営する生活習慣病予防のための健康情報サイト「e-ヘルスネット」によると、共依存とは「依存症者に必要とされることに存在価値を見いだし、ともに依存を維持している周囲の人間の在り様」と定義されている
父の闇金及び負債歴
約8年程前にはじめて父は闇金に手を出した。(わたしの知る限り初めて) そのときにわたしは、はじめて上場企業への内定が決まり、姉はまだ幼子を抱え、兄もまともな企業で働き、わたしたちは個々に、それぞれの環境が害されるのではないかという、闇金という得体のしれぬ違法業者にただただおびえることしかできなかった。父は何食わぬ顔をしていた。
自分の不安を一度棚に上げ、当時、父のことを考え抜いた。どうすることが「父にとっての真の幸せ」になるのかと。結論としては「破産して負債能力を奪う」ことが彼の幸せであるということだった。成年後見関連の仕事をしていたこともあり、彼の先々がリアルに目に浮かび、いまこの決断をしてサポートにつくすことが、娘としてできる最大のことだと決めた。大事なことなので誰にも相談せずにわたしはそれを一人で決めた。
その旨を「家族会議」と称して集まった際にわたしは淡々と話した。すると父は「二度と家の敷居をまたぐな」と激昂した。まだひ弱だったわたしは、ただただ抱えきれぬ傷を平気なふりをして抱えてるふうにするのにやっとだった。後日、父に手紙を書いた。「わたしは、オトンを違法なことに加担させた業者や社会悪を絶対に許さない。必ず幸せになってほしい」
以降も多重債務者を両親ともに継続し、目も当てられぬ状況のなか、いったい何度両親の幸せを願い、考え、行動を起こしてきただろう。いつもそれらは無に帰した。その度に自分の無力さに帰宅して泣いた。どうして救えないのだろう。思えばそんなことを3歳のころから思ってきたのだろうなと気づいたのは最近のこと。(これに気付けたことが、わたしを大きく成長させてくれたのだが、それはまた追って。)
「早く追い込まれてほしい」わたしはそう思うようになった。人間は死ぬまで成長できる。そのぐらいの可能性を秘めているのが人間という生物であるとわたしは信じているのだけれど、年を経るごとに難易度が上がっていくのは間違いがないことであって。それは自分の過信やプライドが邪魔をするからだ。男ならなおさら。
それはわたしも例外ではなく、誰に何を言われても耳を貸せなかったことがあって、その後追い込まれてどうしようもなくなってはじめて「変わりたい」と思えた。さらに苦しくなって「変わるんだ」と決めた。そこに行動が伴ってはじめて人間は変わることができる。だから大事なひと達には「早く追い込まれてほしい」そう願わずにはいられないし、わたし自身も自分の身に降りかかった際、そういう局面に立たされることはラッキーだと思っているタチで。
さて、父は一昨年、2度目の闇金に手を出した。闇金は家族の情報を担保に借り入れをするのが一般的だけども、そのタイミング以降、わたしや兄弟や母の電話には詐欺まがいの電話やSMSがかなりの頻度でくるようになった。自分のもとにそれが届くたび、腹の底が熱くなり、たまらない気分になった。父は何食わぬ顔で生活をしている。

母の共依存
共依存の説明は既出のとおりだが、これは病理としての「病」だそうだ。母はまさに「病」としかいいようがなく、どれほど事実を一緒に見つめようとしても目をそらしてしまい、父ばかりを見つめてしまう。自分が幸せになれることを確信できないのであろう。それは年々ひどくなり、昨年、両親の家に裁判所からの支払い命令(父が踏み倒しているまともなところからの負債) が続々と届くようになったとのことだったので「もう父と一緒に暮らしてはだめだよ」と何度も説得し、母だけ引っ越しに成功したように見えていたが、結局、昨年末には父と暮らしているとのこと。
様々ヒアリングをしたら、結局のところ「田舎で猛獣などもいて怖かった」などと言っていた。いろんなことを並び立てていたが、結局はそれが最も強い主張のように聞こえた。実の親に大変恐縮ではあるが「情けない」わたしはそう心で思ってしまった。
自分の夢をかなえるために田舎に行ったのではなかったのか。そこに猛獣的なのがいたら、近所の誰かとなかよくなって知恵を拝借するとか、やられそうならこっちからやってやるとか、そのぐらいの女の意地はないのかと思った。
わたしは高校中退後、おおむねずっと一人暮らしをしてきた。高いものは自分で取るし、DIYも自分でやるし、ジャムの蓋も自分で空けるし、ケガをしたらタクシーを呼ぶし、体調を崩したら自分でなんとかする。歩けないほど朦朧としているときですら、わたしは結局歩いて大学病院までいき、結局入院した。ひとりで生きるってそういうことだ。自分と比較すると弱すぎて言い訳がましくて腹立たしい。
母しかり、一部の友人というか知人にもたまに感じることだ。言い訳している人を見るとどうしてあなたにはしっかりと立ち上がれる力があるのに、環境のせいにしているのだと腹が立つ。この「わたしはこうなのにあなたは」という比較すら、正常ではないことも理解している。まぁ概ねみんな狂ってるってことでもういいだろ。とにかく、それを聞いたときに腹立たしいというか呆れたのだった。
母のキャッシュが底をつく
なぜこんなことを、30代のわたしが、60代のひとに確認してあげなきゃいけないんだろうと辟易しながら、こういう辟易してる人間がこういう役を買っちゃいけないんだよなと自覚もそこそこに、ヒアリングしたところ、どう考えても母のキャッシュは底をつきそうだった。そして、父から新たな負債を被せられて、それについても再三叱ったけれど、悲しくなってわたしは、ネギトロ丼を黙々と食べた。母も悲しそうにしていた。
どうしようもない母を、父から引き離すために、区役所の福祉課の人&わたしで母を説得した帰り道のことだった。あれほど悲しい食事は今後ないだろうなと思うほどだった。
結局のところ、父は母に債務能力がある限り、母にたかりつづけるので、両親ともに自己破産させて債務能力を奪うことが一番の近道なのだ。わかってはいるけれどチャンスがない。そしてやってきたこの契機。ここぞとばかりに福祉課とタッグを組み、母の説得を試みた。が、失敗した。n回目の失敗だった。
福祉課の人は母に優しく質問をした。「あのね、お母さん。深い穴があるとしようよ。その穴にね、落ちてるのよ。旦那さんと一緒にね。そこにね、ロープが垂れてきたのよ。そのロープはあなたのために垂れている。このまま穴にいては二人とも死んでしまう。そういう状況だったら、迷わずロープをつかみませんか?」と。
母は迷わず言った。
「だったらそのロープを父さんにあげて、わたしは穴で死にます。死んだほうがいいんです」と。
一緒に暮らそうよ、お母さん
悲しかった。とてつもなく悲しくて、少々記憶があいまいになるくらいの衝撃があった。かなりの修羅場をくぐって図太くなった精神を持ち合わせていると思っていたわたしが、ブローのようにくらってしまったのだった。
これまで何度母に一緒に暮らそうと言ってきただろう。そして何度「やっぱり父さんと暮らす」と言われてきたのだろう。どれほど用意周到に計画をして手をまわしても、母に?なのか、父に?なのか、もはやよくわからないのだけれど、とにかく計画を壊され、失敗してきた。その度に失っちゃいけないなにか大きなものが自分から削れていくような気がした。
仕事の合間をぬって地方へ母に会いに行ったわたしを横に、母は平然と「穴の中で死ぬ」というのだった。ねぇ、わたしは隣にいるんだよ。ねぇ、わたしはあなたの娘なんだよ。なんでだよ、という思いを抱えながら高速バスでぼんやりと景色を眺めながら、わたしは涙を必死にこらえていた。回復に一週間ほど要したけれど、収穫も大きくて、それは「幼少期もいまも、両親は全く何も変わらない」ということだった。
それがわかったとき心底安心した。そうだ、彼&彼女は何も変わらないんだと。
だから私は記憶の限り3歳からずっと「ねぇなんでわたしを選んでくれないの?」と思っていた。焦燥感を抱えながら、わたしを選んでもらうために必死に振舞った。それが生存戦略だった。それらが大人になってもしみついていたから、ただ社会生活をするというイージーなことすら大変な疲労を要してきた。でもそれは、このようなルーツがあったからで、その点に自分に責はなく、当然の現象が起きていたのだと。だからもうわたしは苦しまなくていいし、もう何もかもから解き放たれて自由に、自分の人生をこれからは生きていいのだ。そう思えた。
(断っておくが、18こえたら自分の人生と思っているので、なんの言い訳もきかないし、言い訳をするということは恥ずかしいことだ。自由と責任はワンセットなので、わたしは言い訳が嫌いだし、言い訳がましい友人知人も好きではない。ただ、ルーツを知ることや、なぜいまの自分が形成されたのか?を理解するということは非常に重要で人生を前進させる効果があると考えている。けれどだから自分は親のせいで~とかは正直ダサいと思うし、わたしはその考えには共感できない。)
あなたはあなたの区画のなかで幸せに
それでいいんじゃない?と信頼する先輩が言ってくれた。
わたしの経緯を十分に知ってくれていることや、経験値が豊富すぎることなどもあり、妙に安心した。そうか、母は母の区画のなかで幸せになればいいのか、と。それがわたしの思う幸せでなくてもいい。というかもう母はなんなら幸せなのかもしれない。ただわたしは、わたしを愛して生きていけばいいだけだし、母も母の区画で幸せになればいい。
わたし自身のドタバタ引っ越しが重なり、そのタイミングでわたしは父の戸籍から抜ける手続き(分籍)をした。だからどうとかではないけれど、住所を知られる可能性がなくなったので、闇金業者にわたしの住所が流れないと思うと少しほっとした。母はわたしが父の戸籍から抜けたことを知ると憤慨していた。いつもの反応すぎて、小鳥のさえずりにしか聞こえなかった。
わたしは、もう、自由なんだ。ありがとう、お母さん。わたしはね、一人で暮らしているけれどなにもみじめではないし、シミチョココーンを食後に食べて自分をねぎらったり、大人だしシミチョココーンを3連全部食べてやったりする日もあって、とても充実しているのだよ。お母さんは結婚をしない、子供を産まないわたしをいつも哀れのように言うけれど、心は自由で、幸せは環境では決まらなくて、すべて自分で決まるんだよ。

クレープを食べちゃう日もあるよ。好きなのはチョコバナナ生クリーム。わたしはね、並んで食べる価値のある食べ物だと思う。昔、親の愛情をいつも追い求めていた。10代でうつ病になって自殺未遂したあの頃に、眠れなくていつもクレープを買いにいって爆食いしていた。重く胃にのしかかるクリームが生きていることを感じさせてくれた。だからわたしのソウルフードはやっぱりクレープ。いまは生きていることそれだけで幸せ。

こないだはとあるコーヒーショップにはじめていったら店主がめちゃくちゃ優しい人で、わたしに食べかけのカニパンを恵んでくだすったのだけど、袋には3つカニパンがはいってて、1個は友達に、1個はわたしが、もう1個どうしよう?と思って、いただいたものは全部食べなきゃというなぞの前提のもと生きてきたので、平然と食べたらその店主に「強欲だな!たいしたもんだ!!(笑)」と言われて友人と爆笑して大汗かいたよ。こんどカニパンもって謝りに行くよ。一緒に笑ったり泣いたりしてくれる友達もいるんだよ。

お母さん。ありがとう。こんなにわたしを強く幸福にしてくれて、本当にありがとう。
