バリラでカルボナーラ:人間関係の変化と自分が自分であることの因果

“変わる”はしんどい?

最近より顕著なのだけど、人間関係の入れ替わりというか、濃淡の変化というか、そういうのが早くなったなと。

濃も淡もいずれにしても、だいたい「あ、この人はあの時の私のあの発言で興味を削いだ(抱いた)んだろな」というのがだいたいわかるようになってきた。(確認のしようがないが、たぶん当たっている気はしている。)

昨年くらいまでは迎合していた、もしくは迎合していることすら気付かぬほどそれが張り付いていたから、淡な人間関係もしくは、自分と本来的には抜本の考え方が異なるのに仲良さげな雰囲気が続いていた、みたいな関係性が謎に多かった気がするのだけれど、自分という人間が分かりつつあって、自分が心地のいい表現や対応が無理なく徐々にできるようになってから、長く続く必要のない関係性は相手から自ずと距離をとってくれるようになって、きっと私がバージョンアップの時期なんだなというかなんというか。

最初は「な…なんなんだろう(⌒-⌒; )すんごい最近そういいこと多いぞ。。」と少々動揺したけれど、ややや、これは明らかに捗っているのだと感じるようになった。逆に「あぁもうあのひととは関係性薄くなるんやろな〜寂しいけど致し方ねぇな〜〜」みたいな人と予期せず親密になったり、過去の経験と集積データからは読み取れぬ変化が多く、これって非常にいいんじゃないかと思う。

ずっと変化していたい。生きてる以上肉体はどうしても老いるけど凝り固まることなく決めつけず、自分がいい方向と信じる方面へ進んでいたい。

変化は辛い。それは良く変わる場合もそうだ。安住が楽だからだ。自分自身のたまのバージョンアップはしんどいけれど、こうして見えてくるものが変わるのはいいことだなと思う。もっといろんなことを知りたい。物事の本質を知りたい。知りたいし体感したい。その欲望は昔から変わらない気がする。

その上で、何度も同じこと言ってるけど、私自身は相手が変わっても変わらず友達でい続けようと思いたいと思う。大きく距離を取られようが、親密になろうが、スタンスは同じ。苦しい時はいつでも気兼ねなく話してほしいし、精神的に頼ってくれて構わないし、疎遠になっても思い出したように連絡をくれて構わない。人間はそんなに強くない。そんな感じ。

とにかくカルボナーラ

そんな気分だ。狂ったようにカルボナーラを作ってる。噂のバリラに手を出してしまい、なんならフィットチーネバリラを大量購入したら、もうカルボナーラ一択でしょうということで。飽きがこない。こなさすぎて怖い。

なんかもう美味すぎてよく意味がわからない。その割に簡単だし何が起きているのか。基本的にパスタソースは我らがストウブ(staub)様で作る。そこに固めに茹でたパスタをドーンと入れてストウブで馴染ませる。最後に卵。最高である。誰かこのカルボ沼から救ってほしいくらい、食べてる。

年々、飲食店の質が下がってるよな〜と思う。外食ガチャが激しい。だからいつも手を抜かず、普通に美味しいを大切にしてるとこしか行かないのだけれど、物価高の影響なのか、そういう「普通に美味しい」店すら陥落していってる印象で…。例えば衛生面が下がっていたり、単順に味が落ちたり。

辛けりゃ値上げしてもらっていいんだよ…!!!といつも思うんだけど、値段据え置きで色々辛いからどこかにガタきちゃいました。そんな感じだろうか。頼むから値上げしてクオリティを担保してくれ…と思うのだけれど、なかなかそうもいかないようだ。

ということでやっぱり家でうまいもん作るのが1番確実だなと思う。料理を終えて食洗機に食器をぶち込んでシンクを綺麗にすると満足度も高いし何より“外食ガチャ”がないのがいい。

同じ夢を見なくなった

最近の変化といえばこれもある。比較的毎日しかも似た夢を見がちという体質?睡眠の質の低さ?があったのだけど最近これがなくなった。

もちろん夢自体は見るのだけど、以前のように、ハラスメントで辞めた職場の夢を見たり、乗りたい電車に乗れない夢を見たりすることがなくなった。

職場の夢に関しては、目覚めると「まだ自分は他者の評価にしがみついてるのか…」と絶句しつつ、もう誰の評価も依存しない自分になりたいと切に願うという後味の悪さというか、向こう岸まで泳ぎ切らなければという切実さがあったのだけど、自分が自分でいていいとわかった今日このごろはそんな夢も一切見なくなったな。電車に乗れてるのかもしれない。

 

(スーパー余談だが、↑そんな夢を見ていたころの暗ーいスーパー下書きを発掘したので稀有な方はどうぞ)

自分の中のこのどうしようもない暗さっていったいなんなんだろうなぁと思うことがある。誰も寄せ付けない誰とも接点を持ちたくないという暗さが、ある。

明るいねと言われることがある。色々経てるんですがねと思うけどまぁ褒められてるしいいだろうと感謝をしておく。何気なく人生の闇ボックスから一個だけ闇トークをしたりすると大変驚かれたりする。やや、ぜんぜんまだ闇の在庫ありますけどねなどと思う。いったいどうしたというんだ。人間の評価なんてそんなもんだ。単一的で表面的。でもそれを、それらを、自分の構成要素を全てわかってもらう必要なんてたぶんない。でも表面的な評価をされるとなんというかすごくこうざわつく。とんでもなく暗い人間ですよと。

暗さからは誰も救えないなといつも思う。それは自分の身に起きた出来事だけではなく、周囲で見聞きする全てに対して思う。いつも立ち上がるのは、這い上がるのは自分自身で、どれほど手を引いてあげても、立つつもりのない人や這うつもりにない人は、どうしてあげることもできない。だからいつも、自分の中にはありえない底力があることや自分が幸せになりたいと思っているし思っていいんだということを、どうか信じてほしいなぁと願ってしまう。それは祈りに似た切実な思いで。

最近あまり寝れてなくって、昼寝して起きたら夕方になっていて暗い気持ちでこれを書いている。昨日まで左の扁桃腺が腫れて痛かったのが治ってて、右に口内炎ができててひどく痛む。左右バランスの取れた人間になりたい。しかも夢では以前働いてた外資でまた働いてて、あなたはとても優秀だと以前のくそパワハラ上司に言われて浮かれながら目が覚めた。

どうか私、誰の評価も頼らないで。

父が闇金に手を出して:どうしようもない私の家族の話と西村ゆかさんの本。依存症の家族との向き合い方

ブログがバズってしまって

さてさて。春になったかと思いきや寒くて、しかしニートとしてはまだ冬であることに少し安心したりする日々ですがいかがお過ごしでしょうか。のっぴきならぬ標題ですが(苦笑)、これを読もうと思ったあなたは大変稀有な方であられることは間違いありません。

前回のブログがなんだか謎のPV数をたたき出してしまい、この挙動はいったい・・・?と思いきや、天下のハテブ様のピックアップブログ?的なのにご選出いただいたようで、いやはや。大変恐縮しつつ、こちとら「徒然自慰行為」という名前でやらせてもろてますんで、自慰行為をこれほどの人々に見られるというのもなんだかな・・・という素朴な疑問を抱いていたら35日経っておりましたこんばんは。

概ね私のことを知らぬであろう人たちの場所で何かを書いていきたいと思い始めたどうしょうもないブログでして、匿名ハテブで「嘘松!」と罵られるのを夢見ているただの中年こじらせ女でありますんで、今後も決してネイチャー系ブロガーにはなりません(^^)手ごねパンネイチャー系ブログをご期待の方はいますぐの下山をおすすめいたしますどうぞよろしくお願いいたします。

父が借金依存症で

ということで、のっぴきならぬ標題について片付けましょう。この夜分にいてもたってもいられない気持ちで、目をはらしながらポシュレを流しながらこれを書いている。東京はとても寒くて。

どこかの記事に書いた気がするが、父は借金依存症である。その確信に至ったのは約7年前。ほぼ確信めいたものを何十何年も抱いてはきたが、途方もなく分厚く高い壁に薄々気づいていて、言語化を恐れていた節があったと思う。けれど、もうこの人は借金依存症で間違いがないのだと断定的な気持ちになったのは、7年前だ。

そもそも「借金依存症」というカテゴリーは正確には存在しないようだ。一番近しいのは「ギャンブル依存症」。父の挙動を見るに、過去はギャンブル依存症も通過しているだろうと観測しているが、老いてからはギャンブルに依存しているようには見受けておらず、やはり「借金」に依存していたし、今もそうであると確信している。

(5歳未満の頃から、パチンコ屋にいる父を呼びに行くのが私の日課で、母はよく私を使っては何とか父のパチンコをやめさせようと試みた。が、無理だった。そんな悲惨さは息をするように日常だった。)

負債前提の事業で自転車操業を続けていたのは、もちろん彼の甘さが要因であるというのは前提だが、彼の身を置いた時代背景もあるだろうと思う。阪神淡路大震災前に父が経営していた建設会社は乗りに乗っていたらしく、私は億ションに住んでいて社長令嬢社長令嬢と歩けばもてはやされる程度の金持ちだったそうだ。しかしそれは単に時代が良かっただけで、それを実力と錯覚してしまい抜け出せないのではないかと思う。

そういう老人は多いなと世間を見ていても思うし、自分がどれだけ稼いでも、未来の子供たちのためではなく、老人のために税金を使う比率が高いことを思うと、働いてても父の顔がよぎって、控えめに言っていつも吐き気がした。

父が闇金に手を出して-1回目

7年前、ついに父は闇金に手を出した。そもそも、事業で失敗し、それでも見栄を張りたいがために自転車操業をしてきた父である。両親ともに息をするようにキャッシングをし、負債は膨らむばかりで、なんなら母も借金依存症ではないかと思っているのだが、もうちょっと収集がつかないのでいったん父の話を。

多重債務者が正確な情報を言うことはない。だから父が正確にはいくら負債を抱えているのか全くブラックボックスだ。

だが、肌感として「少なくとも」3千万はしているのだろうと推測していた。そしてその多額の負債を「負債ができる俺」という風にいつも自慢げに話してきた。口を開けば「債務能力があるのは素晴らしい」ということと「いざとなれば破産して逃げればいい」ということと「お前も早く投資用の家を買え」ということだった。

老人の話にボランティアで付き合っているのだと何度も自分に言い聞かせたが、債権者のことを思うと腹が立ったし、もう会話すら成立しないのか・・・と、父という人の老いに茫然としたし、こんな人に振り回されながら、私や姉や兄の尊い幼少期は犠牲になり続けてきたのかと、取り返せない大事な時間を思っては途方に暮れた。

(両親はこのような具合で自転車操業で生きてきたので、明日食べるものがない貧乏生活もずっとしてきたし、父が人に騙されては仕事を求めて家族ぐるみで転居をし続けて、私たち子供らは一か所で人間関係を築くことはできなかった。そして親はいつも金がないストレスで子供を虐待した。これは氷山の一角だが、まぁそんな具合だった。)

父にできる最後の親孝行を探して

父は負債を愛していた。薬物依存症をイメージしてほしい。薬物依存症患者から薬物を奪ったら、キレ散らかすのが想像できるだろう。それの借金バージョンと思ってほしい。反応や脳の構造はまったく同じである。

産み育ててもらった恩はある。わかっている。けれどそれ以上に嫌悪がある。それを隠しながら、私もまともな人になりたいと、私も「良き娘」になりたいと、思い続けてきた35年間だったように思う。

「両親を嫌悪しています」だなんてことを言ったら、社会から投げかけられる言葉といえば「恩が~」とか、「腐っても親なんだから~」とか、気分が下がるのでこれ以上は書かないけれど、いずれにしてもこちら側が批判、軽蔑される言葉をかけられるのは想像にかたくないし、かけられ続けてきたのでもうそれも面倒で、いつしか私は押し黙って本音を自分に対しても隠すようになった。

なんて生きづらいんだろう。そう思った。

35年間受け続けた行為に対する感情を、ごくまっとうに感じているだけで社会では浮いてしまうのか。きっと誰にもわかってもらえないし、こんな嘘みたいなカオス、誰にもわからないだろうと思った。私の混沌は兄にもそして姉にもわからなくて、私にしかわからないものだろうとも思ったし、誰にもわかり得ない中で、親にできる最適解を一人で導き出さねばならないことは非常にプレッシャーだった。

長年、父という人と対峙し、思案する中でたどり着いたのは「破産させて債務能力を奪ってあげることが、娘の私にできる最後の慈悲」ということだった。事前に弁護士事務所にも何度か相談を行い、自己破産の要件や費用感などを調べあげたうえで、費用は私が全て負担し、破産後の父の面倒は私が責任をもってみようと覚悟したうえで、破産を提案したのが確か7年前の闇金事件のときだった。

いったい誰が悪いのか

ショックすぎてあまり記憶が正確ではないのだが、その時父は怒り散らし、私を罵ったように思う。敷居をまたぐな的な、縁を切る的なことを言われた記憶だが、正確には覚えていない。この人は依存症患者なのだと言い聞かせ、何度もシュミレーションして覚悟のうえだったが、実際に目の前で罵詈雑言を浴びせられると非常につらいものがあった。私にとっては考えつくした最後の慈悲行為だったが、理解されるはずもなかった。

しばらくして母から電話があり、父が私のことを罵っていてうんざりだという内容だった。

これを母から聞かされている私ってなんなのだろうと思いながら、母の非常識さと愚痴のひどさは、私からしたら5歳未満のころから息をするように日常なので、「そうなんだ~ははは」と軽くあしらった。共依存に付き合わされるのもうんざりだった。

そもそも、依存症になる人は過去の強いストレスが少なからず起因しているらしい。父でいうと、過去に産みの親と育ての親にそれぞれ捨てられていて、施設で育っているので、特定の養育者との愛着関係を築けぬまま、それは多大なストレスを抱えて幼少期を生きてきたのだろう・・・とは思う。

何度も同情もした。でも、私も傷ついてきたし、どうしょうもない親に疲弊してきたし、悲しんできた。

それは天秤に載せられない事実で、いったい誰が悪いのだろうといつも考えてきたように思う。答えはまだ出ない。

いずれにしても闇金は社会悪だ。ブラックマネーはたくさんの不幸を作る。そこに加担したわけだから、それは父の責任であると思う。けれど依存症の人を責めても症状を悪化させるだけだ。私はその後父に手紙を書いた。

「私は父の手を悪に染めさせた、悪人たちをぜったいに許さない。いつもあなたの幸せを願っている。」

闇金から足を洗うのは難しいのではないかという家族の推測に反して、意外とすんなりと父は闇金から足を洗った。その手紙が何かしら彼の心に影響したかどうかはわからない。大きな安堵とともに、闇金から借り入れる際に当然渡したであろう私たち家族の情報のことを考えると、父がいったいどういう気持ちでその情報を渡したのか想像がつかず、ただただ吐き気がした。そして、闇金がいつ私の家にくるかわからないという不安で眠れない日が続いた。

父が闇金に手を出して-2回目

それは先月のこと。母の挙動がおかしく、電話でヒアリングしたところ、何やらそういうことだという。続けて母は「だから、今から兄のところに行って相談をする」という。んんん?この人は何を言っているのだろうと思った。

あなたがすべきことは、以前から私が何万回と言っているように「離婚&別居」しかないはずなのに、だ。兄は優しいから母の話を聞いてあげるのだろう。それで母はおめおめと泣くのだろう。泣いてなにが変わるんだよ。しっかりしろよ。こんな嫌悪を抱くのも、息を吸うように日常だから私は決して驚かない。・・・そう、言い聞かせた。いつものことだ、と。

ならばと思い、兄の家に私も行き、おのずと家族会議になった。「離婚&別居」をいまこそすべきときなのではないかと懇々と話し、これも何万回も言っているけれど、負債の穴を埋めてしまうあなたがいると、依存症患者を悪化させるだけだとさとし、母も今回ばかりは言う通りにするといった具合で、3月中の実行を計画した。

兄とも何度か協議を重ね、今回ばかりはうまくいくだろうと思っていた矢先、母はやはり変わらず、父と暮らし、父と働き、父が借金をするのを手伝うという選択に至ったということを先日知った。何十年も抑えてきた空いてはいけない蓋が、バカっと空いたのを如実に感じ、私は虚無感とともに、何のために両親にここまで心や時間をさいてきたのだろうと悲しくなった。そしてポシュレを流しながらこれを書いている。

「あなたのお父さんに死んでほしい」

先日、私の旧友は目に涙をいっぱい浮かべてそう言った。彼女は目が細いのがコンプレックスだからいつか整形したいという。私はその大きい目がいつもかわいいと思う。コンプレックスとはそういうものなのだろう。

彼女は5年程の付き合いで、一番仲のいい友人だと私は思っている。彼女も沢山苦労をしてきているけれど、そんな素振りを一切みせずにいつも澄んだ空気をまとっている。こんな純心でいられたらなと、私は彼女と会うと祈りに似た気持ちになる。

前日に、ラインをしてて、私の挙動のおかしさを察知したのか「明日会わない?」と言ってくれた。私はあまり人を誘うのが苦手なので、驚きつつもすごくうれしくって「ぜひ!」と言って約束をした。シングルマザーなのに、子を預けてわざわざ私の最寄駅まで来てくれるとのことだった。そんなに挙動がおかしかったのだろうか、自覚はないけれど彼女は鋭いので、まぁまぁやばい雰囲気を出していたのだろう。

私のお気に入りのケーキ屋に入って、ケーキがくる前くらいまでに、彼女がいろいろ質問してくれたので、私もつい「重い話だよ」と前置きしたうえで、つらつらと両親のことを話してしまった。

できるだけ簡潔に、できるだけこの昼下がりのケーキやさんに合うようなトーンで、できるだけ明るく話すように努めた。だいじょうぶ、こんなの息をするように日常なんだからと言い聞かせるまでもなく。そして考えつくした渾身の「7年ぶり2度目の闇金って、箱根駅伝かよ!!!(笑)」というツッコミを決めて話を終えた。

パっと顔をあげると彼女の大きな目は涙でいっぱいになっていて、いつも明るく気丈にふるまう彼女の眼に涙が浮かんでいるのを私は初めて見た。ちょうどケーキがサーブされたときだった。そして声を震わせながら言うのだった。

「こんなこと言ったら本当にごめんね。よくないってわかってる。でも、あなたのお父さんに死んでほしい・・・」

彼女はしぼりだすようにそう言った。これを聞いたとき、はっとした。私はなんてだめな友達なのだろうと。泣いたこともない彼女を泣かせてしまい、悲しい気持ちにさせてしまい、なんてだめな友人なんだろう、と。それと同時に、35年蓋をしていたものがガバっとさらに空いたのを確信した。「あぁ・・・私は傷ついてきたのだ・・・・」と。

私はそのときも泣かなかったけど、彼女が「あなたが苦しめられてきて、悲しめられてきて、私は悔しい」と涙した姿をみたことで、傷ついて当然、嫌悪して当然の事象がずっと何十年も続いてきたのだとやっと理解したし、私の代わりに泣いてくれた彼女がいたたまれなくって、隠すようにまた私は笑ってしまうのだった。

そして彼女が発した言葉は、私が思っていたことだった。でもそんなこと言っちゃいけないし思っちゃいけないと固く蓋をしていたし、父の良き娘になりたかったし、いまだになれるのではないかという幻想を抱いていた。そして父も、良き父になってくれるのではないかと信じていた。

二度目の闇金、二度も家族の情報を売った父、社会悪、幸せになってくれない両親、私と縁を切るといった父、幼少期に寝たふりをして父にわざと抱っこして運んでもらった夜、愛人とばかり過ごす父、あなたの父は愛人と浮気してるのよと5歳の私に言い聞かせる母、いつも悲観的で愚痴っぽい母と、泣いてんじゃねぇよとイラつく私、兄を虐待する母、それを見つめる私、姉を虐待する父、それを見つめる私、家に金がないのに避妊せずにセックスをして身籠らせては金がないからと荒療治で堕胎させて母を寝込ませた父と、そんな父を愛してしまう母、両親を尊敬せねばならないという社会圧や規範、目の前で親友が涙を流して、私の父に、死んでほしいと言っている、それは私が、長らく秘してきた、言葉だった

どれもこれも重すぎて笑えない。

あれから数日経過するけれど、まだ彼女の涙と言葉が忘れられない。あんなことを言わせてしまって、本当に申し訳なかったなと、かみしめるようにそう思っている。そして、明け方にひとりでポシュレを見ている。

西村ゆかさんの著書を読んで

www.yomiuri.co.jp

どうしようもねぇなと思いフリーズしてSNSを見ていたら、上記が流れてきたのでぼんやり読んでいたら、なんだか自分と重なりすぎていて即座にkindleで新作の著書を購入して読みだしたところ、なんだかもう重なりすぎてどうしようもないというか、言語化を避けてきた感情がありありと書かれていて、なんどもkindleを閉じては号泣した。

以前から、大変に理路整然とした方だな、ひろゆきと結婚生活できるくらいなのだからGMOって恐ろしくメンタル鍛えられる会社なのだなという理解でいたが、実際はそうではなかった。(それが起因しているところも数パーあるだろうが)。西村さんはとんでもない家庭環境で育ち、それを振り切るようにして大人になり続けていた。動画やテキストからあふれ出ていた理路整然さは、それだったのかと納得がいった。

https://amzn.asia/d/28hDaYh

転んで起きて 毒親 夫婦 お金 仕事 夢 の答

形容するのも野暮かなと思うくらい良作だったので、あまりここには書かないというか感情移入しすぎて書けないのだが、とにかく父や母の死を私はどうやって見つめていけるのだろうと思ったし、そのために私にいま何ができるのだろうと、余計に途方にくれたところもある。

でも、途方に暮れるというのはゼロになるための通過儀礼的な要素もある気がするので、私はゼロになるのかもしれない。

そんなことを思っていたらどうりで寒くて、外はみぞれが窓をたたいていて、あなたのお父さんに死んでほしいといって涙をいっぱい目にためながら謝る親友の瞳が、私はどうしても忘れられない。

 

 

軽々しくパンを作って、軽々しく自分の思考や感情を相手に伝える:ふかふか手ごねパンは人を幸福にするよ!

軽々しくパンを作る

最近、朝起きて手ごねのパンを焼くのがブームだ。配合は以下

強力粉200g
塩3g
砂糖20~30g
イースト4g
牛乳130cc
バター15g

注意点は以下で

イーストが活性化しないので、塩はイーストと離れた位置に置く(一方で砂糖はイーストの餌になるので真横に置く)

・バターはあとで入れるから最初に入れない

・牛乳は40度くらい(計測なんてしない。レンジでチンに指で確認じゃ)

それ以外はもうとにかく雑多にボウルにぶちこんで、手で混ぜる。粉っぽくて不安になってもとにかく混ぜる。このくらいになったら

やっとバターが登場する。別途レンジにぶちこんでゆるめになったバターを2回に分けて入れている。どの記事で読んだかわすれたけど、なんか分けていれるととにかくいいらしい。

バターを入れるとやっと粉っぽさがなくなり、完全にまとまるのでご安心をば。そしたらもう私はボウルから出しちゃう。なぜなら、全体重をかけたり、朝っぱらから気がふれたみたいに「パーン」「パーン」って机に生地をぶち当てながらこねたいからだ。

昨年仕入れた例のスタンディングデスク↓を

elisabane-g.hatenablog.com

2回ほどアルコール消毒して、ここでこねてしまう。作業場も広いし力も入るし清潔だし、最高である。

時間にして10分程度だけどパンパンと気がふれたように豪快に打ち付け、全身をのっけるかんじでこねるのがポイントだ。これでイースト菌を目覚めさせる・・・とかたしかそんな感じだった気がする。野生のADHDは細かいことを気にしていられない。

パンをこねる+朝日=豊かさ

こねていると朝日が窓から差し込んできて、なるほどこれが丁寧な暮らしなのかとどうしようもなく心の豊かさを感じる。まだ起きたての太陽が生地に差し込む。きっと全地域民が起きてはいないだろう澄んだ風を感じる。そして静寂。「明らかに今わたしは得をしている」なんというかそんな気持ちになる。損得勘定が強い人間出身なので、間違いはないと思う。

昔「丁寧な暮らし」アピールをしてくる友人知人親族が心底うざかった時期がある。夜中に死ぬほど働いて終わりがみえないときに、手作りの料理の写真がラインで届いたり、たまの休みで茶しばいて近況を聞いたら「早朝起きて手作りの料理をするのはいいよ」的な啓蒙を受ける。うるせー。。そんな気持ちでいっぱいだった。

ほしいものは買うし時間も買える部分は買う。だから家で何かを作るとかそんなんやらねぇから。そんなことを腹では思っていながらも「テイネイナクラシイイネ〜~」などと上っ面の中身のない返答を繰り返した(当時の友人らすまんな)。・・・・・・実際やってみるといいものである(くさ)

こね終了

さてさて、そんな回想をしばししてる間に、もう生地はできあがる。いい!すごくいい!宿儺様のような口調でひとりで言ってしまう。うん、全然ひとりでも言っちゃう。つるっとしてなめらか。今回はよく膨らみそうだぞという予感がする。

パンの何がこんなにいいのだろうとふと思うことがある。

改めて考えてみると、手作りの場合「粉から個体ができる」という達成感がいいのではないかと思った。まるでそのようにフカフカなものができるはずのないアイテムを、調合し、気がふれるように叩き、こね、そうするとふかふかの個体ができる。しかもうまい。何が起きてるかよくわからない。

とにかく「手っ取り早い明らかな充実感」が得られるのが、損得勘定出身の人間からすると、非常に手っ取り早く自分を満たしてくれるのだと思う。

そしてパンはうまい。もちろん、うまくないパンもある。でもパンはうまくいくともうよくわからないほどうまい。「ふかふかである」「片手で食べられる」「ある程度は保存がきく」この辺も好きだ。仕事でくたくたになるほど働いていたころ、なにかにつけて「あぁ・・・パンがたべたい・・・・」と朦朧と考えていた。

でも、そのころの私の帰路にパン屋なんて営業しているはずもなく、深夜をとぼとぼとやりきれない思いすら抱えられないブヨブヨの思考を抱えながら、パンのことを狂信的に考えたものだ。そのぐらい、パンって救いというか、幸せが詰まっていると思う。

さてさて。上記のようにこねおわったら、ボールに戻して、濡れたフキン的なの(私はないので水で適度に上部を濡らしてラップする)をかけて、一次発酵という「寝かせ」をする。

細かいことはいいのよ。とにかく目安で「2倍」になりゃいい。この「2倍」というのが大事だ。それ以上でも以下でもふくらみが悪くなる。でも細かいことはいい。「だいたい2倍」になりゃいいのだ。だいたい2倍になったら、以下写真のように包丁とかで等分にする。

そして丸める。大事なことは、丸めるときに一か所で結び目を集めてしっかり指で閉じることだ。まぁでもそれがなくともちゃんと焼けるので、細かいことはどうでもいいのだと思う。このタイミングでなかに入れたいものがあれば入れる。そしてベンチタイムという寝かせをする。

(私はベンチタイムに失敗して膨らまないケースが何度かあった。それはやはり冬場の室温が関係してるように思う。わたしはこのお方のブログが大好きだ。↓

どれが好きってもう全記事好きなのだが、とくに↑この記事には影響を受けたように思う。昨年、何もやる気が出ず、まるで定年間際もしくは定年後のやつれたおっさんのように、燃え尽きてしまい、今後の人生でどのように社会性を発揮したらいいのか、社会で何をしたらいいのか全くわからなくなってしまった。

ネトフリや好きな動画を垂れ流しながら、漫然と転職活動をし、内定が出てはうんざりし、人に求められることすらうんざりするのだから、もう何をやってもだめだとふさぎ込んでいたとき、↑名前を申し上げるのもはばかられるほど崇拝してしまっている「このお方」のブログと出会った。

単身赴任サラリーマンのような乾いた部屋でひとりで鬱々としながら、このブログを読んで、心が明らかに潤った。むさぼるように全ての記事を読んだ。最初は「なんだろうすごく潤うな・・・でも自分には無理だけれど」と思っていた。

何度も重ねて読むうちに「わたしもこんな生活がしたいし、このお方みたいに何かを作りたい・・・!」と切望するようになった。バーンアウトしてしまったわたしにとって、それは奇跡のような「うるおい」だった。

少々長くなったがつまり、デロンギコンベクションオーブンで発酵させるのがおすすめだよ、という話(長いわ・・・)このお方の上記記事に詳細は書いてあるのでご覧あれ。決断力が当時落ちていて、買うかどうか(買って使うかどうか)悩みに悩んだすえにわたしは、このお方のおっしゃっている同じ型を購入した。

結果、めちゃくちゃいい・・・!人生「オーブンを予熱させる」という面倒臭さから逃げて全てが芋づる式に億劫になっていたのではないかというほど、予熱時間がほぼかからないということは、ここまですべてを解決して、料理の意欲を上げるのか!というほどである。

いままで何度か買い直して使っていた「石釜ドーム」的なオーブンレンジが、いかに機能として劣っていたかを思い知る。そのぐらいすごい「オーブン」だと思う。(なお、餅も体感的にほぼ一瞬で焼ける)

つまり、少々長くなったが、デロンギコンベクションオーブンで発酵やら焼きやらやったらいいよ、というお話!)

ジャムなども軽々しく作って

さてさて。ベンチタイムもデロンギ様にお任せし、当方は以下のようなジャムを作ってゆく。

減農薬栽培の八朔を購入したので、あまりにおいしく皮もいけるらしいので、これはこれはと思い、こんなこと普通やらないのに、やってしまう。皮は沸騰したお湯で3回にこぼして、実と砂糖と皮を適当に入れてぐつぐつしたら完成。そんな難しいことはしない。とにかくぶち込んで煮込んで終了。

おーーーーー。いいんとちゃう?皮は白い綿をなるべく入れないよう薄目に頑張ったので、苦みも少なめで、しかし香りは強く、酸味もあってよき。それを乗せるんじゃ。(↓ベンチタイム中の生地にのっける。細かいことはいいのだ。乗っけたらまだ大きくなりそうなので、もうちょっと寝かせる)

30分くらいだろうか?こんぐらいのサイズならまぁいいでしょうという感じのサイズになったらいよいよ焼く。

160度で20-30分程度だろうか。まぁその辺は適当だけれど、180はちょっと高すぎる気がする。いいかほりがしてきたらこんな感じで焼けているのだ。

これを幸せと言わずになんと言おう。そとの皮目はパリっと、なかはしっとりなのだ。

これ↑は焼き立てを切った写真。まぁ湯気だらけだからそうなるよねとは思いつつ。

年始に買ったエスプレッソマシーン↓で

elisabane-g.hatenablog.com

頑張ってカプチーノ的なものの失敗作みたいなものも作りながら、間に卵と低温調理した鶏なんかもはさみつつ、実食。口に入る前からうまい。つまり、うまい。

このパンはめちゃくちゃうまいので、本来は何もつけずに食べたくなるほどだ。でもまぁ、身体を考えて今回ははさんだけど、バターも練り込んであるし、何もつけずにうまい。

パンがうまいと大抵のことは幸せになる。手軽な幸せが得られるだなんて、奇跡の食べ物としかいいようがない。

朝の思考。よしもとばななと、人との関係性

さてさて。朝は思考がはかどる。

どうしようか迷った時は大抵夜は寝てしまって、朝起きたてで感じた思考を大事に決断することにしている。迷って夜決めたことはろくな結果にならない。疲れた自分を信じてはいけない。

昨年からうっすら考えていた事案なのだけど、最近すごく考えるのが、縁とか、人間関係の濃度みたいなものについて。私はプライベートで付き合うなら、気兼ねしたくない。

どのくらいしたくないかというと「ホンッッッッッッッッマに」したくない。仕事は致し方ないというか、介入しないと決めているラインがあるし、全員で利益を出していきましょうという集団だから、感情は不要である。(感情をもっているように見せることはある)

でも?だからこそ?プライベートでいらぬ逡巡をしたくないのだ。仕事はまるでチェスのようで大変疲れる。摩耗で減ってしまうのだ。プライベートでも逡巡する関係性だったら、それはもう「友達」ではない。それが、ここ数日の朝に至った思考をかき集めた結論だ。

特に「デジタルの相性」というものがあるような気がしている。オーラルコミュニケーションならそこまで違和感ないのだけれど、デジタルになると一気に嫌だなこの人、みたいな。

もしくは、相手が疲弊してる?のか、何かしらわたしの言動が気に障った?のか、連絡が著しくつきづらくなる人も一定数いる。

つい仕事のくせで、そういうとき、私は脳内にフローチャートを出してしまう。相手が気に障った可能性のある私の言動や、それに応じた相手の思考や行動、行動パターン。一通り思考したうえで「・・・・・やや、もうえぇやろ、あほくさ」と気づく。

時間は有限である。人生も今回は限りがある。自分でははかれない寿命的な側面もある。

限られたなかで、誰に、何に、時間や心を使うのか。これは非常に重要で、なにかしらが「気に食わない」「気に障った」のであれば、非常にシンプルに「それはいやです」「あれはいやでした」「なんでそう思うんだっけ?」「なんでそういう発言にいたるんだっけ?」「それってどういう思考経路なの?」と、私は友人には”気軽に”言う。正確には「気軽に言うように」努力している。

だから「連絡がつかない」ということの理由が私にはわからないし、それを推測するのも酷く疲れるのでもうやめようと思った。事実以外はほぼ無意味だ。

(恐らくではあるが「連絡がつかなくなる系の人」たちは、簡単に相手と線を引いているのだと思う。何度か“連絡先を一掃する系”の元友人らの話を聞いたことがあるが、あたかも「私が相手をしてやる必要はないのよ」と自分に優位性があるような精神状態で、相手との関係性を切る人が多いように見受ける。

無関心であること・無関心であることを良しとすることは、いずれ自分の首を絞めることになる。なぜなら突き詰めると、それは「自分自身に無関心である」ということと同意だからだ。いつか苦しむ機会があればまだいいけれど、ない場合には漫然とした虚無感や孤独感で晩年を過ごすことになりがちなので、人間関係において簡単な選択は避けるに越したことはないというのが私見だ。)

他者や物事に介入することは大変疲れる。けれど、自分が「この人はわたしの友達」と決めた相手に対して、介入できないのであれば、時間にも行為にも意味が全くなくなってしまうと思うし、それこそ「上っ面」であって、自分のコミュニティや社会性や価値をどんどん狭める行為になると思っている。それらが狭まった人の老後がいかに苦しく侘しいものかを私は知っている。

だから、違和感や不快感があれば、素朴な疑問として聞くというのはとても大事なことだと思う。もちろん労力はいるけれど、そういうことなしには、いつまでたっても自分の心の器や価値は拡がらないと思うのだ。

note.com

よしもとばななが好きだ。

正確には「好きな作品とそうでない作品がある」だけれど。Noteは手軽で読みやすいので、軽々しくNoteでいろんな情報収集や思考のアップデートをするようにしてるのだけれど、↑この作品?実体験?(おそらくエッセイも書く方なので、実話とフィクションが混在していると思うのだが)がすごく良かった。表現や単語や形容詞が、すごくささるものがあって、全体的に好きな読み物だなと思った。

特に、植物状態になった“正雄“の祖母が

ぜひ来てやって。私たちも淋しいから。正雄にゆかりのあることをしていたいのね、ずっと。途切れずに。

というところは何度も読み返した。まさにいまの「音信不通になりがちな/なった”友人”だと思っていた人たち」のことがよぎった。

途切れずに誰かと交流し続けたい。見せられない部分はあっていいし価値観も当然異なっていいんだけど、互いの思考や発言に違和感があったらちゃんと「それってなんで?」って聞ける間柄でいたいしその程度の勇気は持ちたい。

そのうえで、相手が自分と異なる思考経路や思考や感情を抱いていたって全然かまわなくって、でも相手を理解する、自分の違和感を気兼ねなく問う作業は続けたい。そして相手にもその気兼ねなさをもっていてほしい。問うてもらう際には言葉は選んでもらわなくて構わない。

自分の望まない思想や思考や感情を遮断することの弊害

そんなことを思い続けた昨年と今月。

相手のことを「切る」的な行為は楽だ。ラインなんてブロック機能があるし、オンラインならどのようにしたって、自分から遮断ができる。何度も協議というか思考の交換をし続けて、この人の思想や思考は危ないかもしれないと思ったり、嫌悪感があとを引き続けて、どう頑張っても尊敬できなくなった人で、残念ながら友人をやめる決断をしたことが私にもある。

(何度も思考の交換をして、疲れたり怒ったり開き直ったりいろいろしながら、十年以上も思案したので、本当はよくなかったかもしれないけれど、ヨシということにしている事案だ。)

でも、すごく安易に手軽に「音信不通」という名の意思表示をしないということは決めている。

過去にも現在にも、それを正当化する友人知人が少数派だが複数いるのだけれど、それを公に正当化する友人(たとえば、電話帳の一掃をこないだして~笑。とか。)には「それはすごくカッコ悪いことだよ」と安易に言うようにしている。(切るとか切らないとかそういう発言や発想や尺度や習慣が、だ。)

きっと何の疑問も違和感も持たずに「自分に利益をもたらす人間とそうでない人間」を仕訳して(そもそも人間関係を利益の有無で判断していて)連絡先を定期的に消している=ブロックしているのだろうから、そういう人間に何をいっても、どこまで届くかは不明だ。

でも私はそれを平然と言う「友人」とも付き合いを切らさない。困っていたらいつだって連絡してきてくれて構わないし、困っていなくても気が向いたら茶しばかないか?と連絡してしてきてくれて構わない。

相手が困ってたら私は軽々しく助けてあげたいと思うし何ができるか不明だが、物や金をあげる以外のことで、できることは何でもしてあげたい。

それは「私がどう思っているか」「私が伝えたいことを伝えているか」という点にこだわっているからであって、突き詰めると相手がどうか?ではないのだと思う。もしその「切る」順番が、たとえいつか私にまわってくるのだとしても。

自分に起こった出来事全てをアイデンティティにする方法:人間は“運命”を覆せるのか

記憶と音楽

髭ダンディズムのstand by youを聴いている。痺れるように冷え込む明け方に、起きたての陽光を浴びながら、頑とした決意でこの曲を聴きながら目的地へ向かうのが好きだ。

標題の件、結論としては「全てに責任を持つと決めて一歩踏み出す」というごく当たり前のようなことだという結論に至っている。

私は中卒だ。様々端折るがこのような経緯もあり、機能不全家族で育ち、学歴も金も経歴も何もない中で

https://elisabane-g.hatenablog.com/entry/2023/11/24/013020?_gl=1*1xq9vv5*_gcl_au*MTM2NzA0OTI2NC4xNzA0ODE5OTg0

様々な困難にまみれながらも憧れの世界的な有名企業に正社員として入社してみたことが数年前にあった。私も若かったのか、いつかみんなからすごいと言われる企業に入って何かを見返したいと思っていた。(のちに気づくが自分は自分でしかなく、評価できるのも自分でしかないということにこの頃は気づかなかった。)

それはthe forthのうちの一社だった(日本でいうところのGAFAM)。まさか入れると思っていなかったけれどコロナ前の転職特需が効いたようだった。転職なんて99パー運だ。

でも蓋を開けたら待ち受けていたのは初日からパワハラのオンパレードだった。それは全然愕然の入り口でしかなくて、毎日毎日何に耐えているのかわからないまま、吐きそうになる通勤の朝にこれを聴きながら(当時は疲れ切っていて難しい日本語や英語の曲を聴けず、水の音とかばかり聴いていた。唯一聴けた言葉のある音楽はわかりやすい日本語と明るめの曲調の髭ダンディズムだった)強い気持ちをなんとか捻出して、日々労働にしがみついていた。

あの頃「何かが明らかに違う」と気づいているのに、「世界的に有名な企業で働いている自分」というしょうもないプライドを捨てられなくて、パワハラこそあれど対価をもらっているにも関わらず心では不満を垂れ流しているカッコ悪い自分を直視できなくて、どんどん自分や他人や社会が嫌いになった。

それでも山のように降ってくる仕事や問題を捌くしかなくて、立ち止まることも泣くことも降りることもできず、全てに対して面倒臭いと思いながら、ヘラヘラと張り付いた笑顔を捨てられなかった。

だからこれを聴くとギリギリの時の気持ちと「あの時耐え続けた」という謎の誇りが戻ってくる。そういう曲や場所ってあると思う。

それは後悔すべき事案ではない

いまの自分が同じ環境に立たされたら、きっとうまく乗り越えられるだろうなと思う。他者に何を言われようが揺るがない強さがあるし、蘇るトラウマもないし(あるだろうけど飼い慣らしたし)、過去そうだったように他者から刃物を突きつけられたら、ほんなら私は斧でいきますわ、とか、ほんならブルドーザーで一掃したりますわ、とか、相手への明らかな怒りを平然とあらわにできるほど元気も図々しさもある。

それゆえに「あのときもっと頑張ればよかったかな…」などという気持ちがよぎることもあるんだけど、やややや、待て待て!と思い直したりする。いま私がこうして強強の心身を手に入れられたのは、あれも含めて様々経て、自分と思い切って向き合って、決別すべきものと決別したからであって、あれがなきゃ今の結果がないから、あの時は明らかにもう「頑張れなかった」んだよと。そんな不毛な自責をするのはやめようよと。

人は自分以外のことに関しては好き勝手言う。それは「自分のことではない」からだ。だから前述の企業を退職するか否か悩んでいたときも「もったいない」という言葉を多数かけられた。そのワードを聞くたびに正直うんざりした。でもそこには「自分のことが自分で決められない」という、そもそもの自分の課題があって、他者に意見を求めてしまったがための当然の果報である。うんざりするなら聞かなきゃいいし、そもそも自分の岐路で人に意見を求めてはいけない。雑味が加わって自分の決断の純度が下がるからだ。

純度が下がると、課題にぶつかった時に他責にする余地がある。自分の人生の責任を自分で取ろうとできないことは、すべての敗因に繋がってしまう。だから、辛くても苦しくても、自分で最後は「完全なる自分の意見」として決めないといけない。

全ての土台は“母”だった

決断力や自己肯定感は幼少期で決まる。7-8歳を越えて、再形成されるだなんてことは「ありえない」と私は思っている。もちろん「似たようなもので補完する」ことはできる。できるというか、それらが残念ながら身につく家庭環境で育たなかった人らは認知や思考や習慣をトレーニングして、補完したほうが絶対にいいと思う。

これを書く前に、親には大変感謝しているし両親との関係性は大変良好であるということを添えておくし、それとこれは全く別次元の話だという前置きもしておく。

私は母を嫌悪して生きてきた。複雑な家庭環境で育ち、中でも母は2度と関わりたくない類の人だった。いつも感傷的で他責で主体性や明確な指標もなく、子供にも息を吸うようにして愚痴をこぼすというか言いまくる母だった。(当時5歳の私に、父(母にとっては旦那)が会社の人間と不倫してて母さん辛いと号泣してくるようなレベルの悲惨さである。私はそれを含むたくさんのことが大人になってからもフラッシュバックして、大変辛い時期を過ごした) 

いったいどのように親を尊敬したらいいのか?人として尊敬できない人が親の場合にどうしたらいいのか?なぜ親を尊敬せねばならないのか?そんな解決の見通しも立たぬ問題を子供時代に抱え続けていた。

今思い出しても嫌悪感しかない出来事に対して嫌悪を示すと、母は決まって「出ていけ」「お前を育てるのにいくらかかったと思ってるんだ」と私を罵倒した。経済権を握られている以上、私の生きる術としては「相手の機嫌を伺う」「空気を読んで相手が気持ちいいであろう言動をする」ということしかなくて、特殊能力のようにそれらを身につけて、大人になってから今度はその特殊能力のおかげで苦しんだりもした。

高校に入ると私は、恐怖とストレスから、親と話すときに「吃音」が出るようになった。さらに言葉を続けようとすると涙が出て話せなくなる。その吃音を母は、恐ろしいものでもみるように見つめていた。もう全てが限界だった。だから高校を中退してキャリーバッグ1つに荷物をまとめて家出をした。そこから都内の某駅のマクドナルドで暖をとるホームレス生活を続けた。

だから最近話題の「トー横キッズ」的な人たちの気持ちがよくわかる。や、時代はあの頃より圧倒的に悪いので、いまの方がよっぽど辛いだろうしわかると言ったら語弊があるかもしれないけれど…。親を嫌悪しかできず、殺したくなる気持ちもよくわかるし、手にかけてしまうかどうかの差は「運」としか言いようがない。そのぐらい僅差なものだから、親殺しのニュースを見たところで別に驚いたり感情移入することもあまりない。私にとったらあまりにも身近なことだからだ。

母は少しずつ変わってる。でも根底は根深くやはり変わらない部分もある(けれどまぁそれは私だって同じことだ)。核となる部分について、変わる可能性はあると思っているけれど、現状はそんな具合だ。愚痴っぽさは健在で、父に精神的に依存してしまうところもある。どうにかしたいと思うからいろんなアプローチをしているけれど、そう簡単にはいかない。でも諦めるのも切り捨てるのも簡単で、だからこそ、そんな簡単な選択は取らないと決めている。きっと母も辛いであろうとわかっているし、私にとって大事な母だからだ。

母はいつもいう。「いいな〜そんな企業で働けて」「いいな〜そんだけお金がもらえて」と。それは自分の未来と可能性に諦めている人が言うセリフだと思う。人間死ぬまで成長できるし成長していい。だからフィジカル的な限界があるもの以外は諦めなければきっとなんだってできる。自分が諦めてしまうから道が閉ざされるだけだ。

そんなことを強く思い、地面に倒れても地面に手をついて立ち上がらせてくれるのは、母が適度な嫌悪を抱かせてくれるからだ。変な境地かもしれないけれどこれは皮肉でもなんでもなく、本当にありがたいことだと最近思う。仮に母が自分の可能性を諦めて現状のまま寿命を迎えたとしても、嫌悪という反応を経て私が夢を追うのだから、これはもう母の功績といってもいいのではないかと思うし、母が夢を追えたと言ってもいいと思う。

こうして良いものも悪いものもごった煮のように鍋でグチャグチャになりながらも、生きていかねばならない人が立ち上がっていくのであれば、時代は必ずよくなるし、たとえ悪い影響を与えた先人がいても、そのことで影響を受けて良き方向に進んでいくことで未来が少しでも良いものになるなら、それは「バトンを渡せた」と表現していいのではないだろうか。

私は間違いなく、母からバトンを受け取ったのだと、最近そう確信している。こうして未来はどんどんよくなっていくのだろうし、良くしていく責務が私たちにはある。

50歳を軸に

今朝はとにかく卵だった。そういう日ってあると思う。うかうかコーヒー入れてマルチタスク状態にしてたら失敗したのだけど、まあこれはこれとして。手作りの手ゴネのパンと共に。

胃袋に気合いを入れてこの曲を聴いて家を出ると思考がまとまる。様々昨年から相当悩んだけど、その向き合う作業は大変苦しかったけど、やっぱりこれしかないと。

もし大昔のホームレスをやってた時代にうまい棒10本で1週間過ごしていたあの極貧状況に戻るのだとしたら、間違いなく50歳までだなとそう思う。周囲を見て思うけれど50超えての貧困や納得のいかない現状を招いた過程に言い訳している姿は見ていて本当にキツイ。

何より周囲の哀れみと、フィジカル的な限界が1番キツイなと思う。だからいま勇気を持って「一般的な幸せ」「他者と比較しての幸せ」から下山しきって、自分の夢を追おうと。そしてそれをある程度形にするのなら50までだと。あと15年ある。絶対に自分の人生を他責にする人生にだけはしたくない。

取り戻す

今の私の持ち物をあなたの努力の成果だと他者はいうけれど私は全く腹落ちできずにいる。私なんかラッキーと嘘と見栄に塗れていただけだと。でもいま、様々な自分のバックグラウンドも含めてアイデンティティになりつつあり、自分の人生を取り戻そうとしている。

今から15年死に物狂いで毎日夢のために努力をすれば15年後に手に入れたものは誰に何を言われようと、明らかにこれは私の努力ですと自分に言える気がする。私は絶対に人に評価を委ねるような情けない無責任な人生にしたくない。

ただ漫然と社会で生きて我慢料をもらう日々ではなく、明らかにこれは私の努力でもぎ取ったのだと言える充実を選びたいし、自分の可能性に限界を決めず、好奇心の持てるもの全てに手を出して欲張ってぜんぶ手に入れたい。そのためには、人よりちょっと多くの勇気を捻出して、毎日死闘を続ければいい、たったそれだけのこと。

未来は全て私のものだ。

とある日、父親が若年性認知症になった人の漫画で号泣の巻(吉田いらこさん)&ADHDの考察その1

若年性認知症

ご存知でしょうか。高齢者が発症する「認知症」が65歳未満で発症した場合にこのような病名がつきます。

素人の雑調べでは原因はこんな感じで

素人の雑調べでは初期症状はこんな感じらしい

1番イメージがつきやすい教材映画として「私の頭の中の消しゴム」という韓国映画を観ていただけるといいと思う。恋愛映画と思っている人が多い印象だが、これは間違いなく若年性認知症の教材映画だと思っている。

https://www.netflix.com/jp/title/70241153?s=i&trkid=258593161&vlang=ja&clip=81502579

ちなみに私はこの映画をもう何十回も観てるけど毎回泣いてしまう。一口には語りきれない壮絶な病。それが若年性認知症だという認識。

ぜひ読んでほしい漫画

https://x.com/irakoir/status/1220907731772567552?s=46

こちらのリンクから旧ツイッタランド(現X)のツイートが見られます。1つのツイートのコメ欄に連なって漫画が読めるようになっているので、ぜひ多くの人に全部読んでみてほしい。私の頭の中の消しゴムは、金銭的余裕があって施設もあって入れたケースだが、本漫画は真逆だ。真逆ゆえに見えてくるものや、ただただ各人の事実が目の前に大きく横たわっていて誰もそれを形容なんてできないという重苦しさから、わずかに見える「人間の人間たりうる強さ」みたいなものがたまに輝いて切ない。

これは吉田いらこさんという漫画家の方が書かれた「実体験」だそうだ。壮絶だな…と誰かがリツイートして流れてきたので、三度の飯よりツイッタランドの徘徊が好きな私はつい軽い気持ちで明け方に読んでしまったのだ。

だいたい20分かからずして読み切れると思うが、中盤から終盤で声を上げて予期せず大泣きしてしまい、枕がベショベショになってしまった。

ここに感想を書くのも憚られるほどのリアルと各人の心理描写があるので、お時間のある方はぜひツイートで読んでみてほしい。

本になってないのかな〜と思ったのだがこれ自体はツイートで読み切りで本にはなっていない模様。カドカワから一冊出してるようだが、それは他者の経験を吉田いらこさんが漫画にした一作のようで、私は吉田いらこさんの実体験が本で欲しかったので、申し訳ないがカドカワの本は買わなかったすまんな。。(っていうかこのお父様の実体験をコラムとセットで出版すればいいのに…うまく才能をお金に変えて豊かになっていただきたい)

なぜ若年性認知症が個人的に涙腺のツボなのか

一応書いておく。もう認めざるを得ないと思ってるのだが、たぶんぜったい自分はADHDだと思っている。

何度か限界がきたときに診断というかまずは調べられそうな病院を調べたり予約前段階まではいってみたのだが、どこも半年以上待ちで、そこまでして診断が欲しい理由ってなんだっけ?とか、今すぐ救われたい(※)のに半年以上待つってなんだっけ?とか思って毎回予約に至らず、ADHD特有の健忘で見事に綺麗さっぱり忘れきって、荒野で野生のADHDとして生きてきたというのが私という人間である。

(※ 障害者年金取る取らないとか服薬するとかしないとかそういう角度の話ではなく、社会から生活からどうしてもあぶれてしまう“自分”という得体の知れなさを医学として一定レベルの診断を取ることでまずは自分が納得いくことでしか気持ち的にもう生きていけねぇよな…という辛さというかのっぴきならなさが昔は間違いなくあったんだと思う。)

こんな具合なので病理として診断を取ったわけではないし、地獄の日々を荒野で積み重ねることで奇跡的にぼちぼちハックできるようになったので「私はADHDである」という書き方は診断とった人に対して恐れ多くてできないのだけれど、「野生のADHDである」ということは言わせて欲しい。

両親ももちろん診断を受けているわけではないし、私は自分の生い立ちからくる精神の歪みやADHDについて学問として把握したかったので大人になってから大昔に間違って保育士の専門学校に入ったことがあってそこで勉強した程度の知見しか持ち合わせていないけれど、父はガチガチのアスペルガー寄りのADHDで母親はガチガチのADHD(なお天才タイプ)だと思っている。兄はアスペルガー寄りのADHDで、姉は軽めのADHDだと思っている。(兄は自分がアスペルガーである旨を自認している。そして自認するほどに長らく苦しんできた歴史がある。)

そして私はガチガチの(野生の)ADHDで、ルーティン化すると力を発揮するという点や、仕事における人との会話や時系列等においては抜群の記憶力を発揮することや、父からの遺伝があるだろうという点ではアスペルガーも若干入っているであろうと思う。

そして自分は衝動性や多動性が強く、症状としては健忘も強いし不注意もある(特殊な訓練で生きる日数が増えるごとにハックしつつはあるが、相当なストレスと集中力を要して生きている) 。幼少期にはしょっちゅう何もないところで転んで流血していたので私の膝はボコボコで汚い。大人になってからも何度も転けたり階段10段踏み外すとかも日常だったので、今生きてるのが不思議といって本当に過言ではない「野生のADHD」だと確信している。

違和感は5歳ごろから体感としてあって、年齢をますごとにキツくなるという点は他の発達の方々と同じで。特に10代の頃は本当にキツくて(や…20代もきつかったな。。ややや。30代もきついぞ……) 、10代は特に以下のような点で大変苦戦を強いられていた。

  • 待ち合わせ時間に到着できない(体感時計が少なくとも4時間くらい狂ってて、何をどうやっても待ち合わせ時間に着くことができない)
  • 常に急いでいる&慢性不注意なので、事故や生傷が絶えない
  • 忘れ物を常にするので信頼を失う&再購入品が多すぎて経済的に厳しい
  • 驚くほど忘れる。全てのことを忘れる
  • つまり生活が成り立たないので生きていけないのだという絶望感がすごい

めちゃくちゃたくさんあるけれどもひどいものをピックアップするとこんな感じだろうか。野生のADHDは死ぬほど鍛錬したので、30代になってから待ち合わせ時間に到着できるようになったのだけれど、久々に会う友人から「じ……時間通りに来た…」とめちゃくちゃ驚くっていうか引かれたこと(※)を追記しておく。そういうレベルで色々なことが「できなかった」のだ。

(※なおこの人はものすごく前の元彼だった。彼とは相当の年齢差があった。久々に会って茶をしばいた時、今いくら稼いでるか的な話になり、隠すもんでもないしと思いたしか当時の年俸7-800万ということを話した後、以降彼とは一切の連絡が取れなくなった。茶しばいた時に得た様々な情報を分析し推測するに、彼は若かりし頃の野生のADHDで待ち合わせ時間すら守れず平謝りする私が女として好きで、“いいよいいよ”“そんなん想定内だから”といつも相手を許容する側でいる自分という関係性が心地よかったのであって、野生のADHDを飼い慣らしてましてやバリキャリになってしまった私には、人としてもno thank youだぜということで音信不通になったのではなかろうかと考えている。男のプライドしょーもな。なお推測の域を出ない話だ)

つまり、健忘もひどく、これはもう常人ではないと思った私は調べて調べた末に若年性アルツハイマーを疑い病院にかかり「脳萎縮」を検査したのだった。もちろん、当然自分は若年性アルツハイマーなのだろうと一定の確信を持った上で検査しているので、心構えは万全だった。一種の絶望と共にそこには安堵があった。「これで世間に、自分は病気なんですと説明がつくぞ」と。結果脳萎縮はなく、若年性アルツハイマーの診断を受けた方には大変申し訳ないのだが、当時の自分は「え……じゃぁなんなの?」と一段と途方に暮れたことを添えておく。

長々書いてしまったが、つまり私にとって若年性認知症は決して遠い病気ではなく、たまたま脳は萎縮してなかったし、他人には決しておすすめできないレベルで自分を鍛錬し習慣を変えたり仕組みで防いでいるので経済活動に支障をきたしたり,誰かを激怒させて日常的に信頼を失うレベルの健忘からは脱却してると思ってるけれど、なんというかうまく言えないけれどぜんぜん当事者っていうか、遠い話ではないので、だから若年性認知症の話を聞いたり映画を観たりすると決まって泣いてしまう。

忘れるということは自分が自分ではなくなるということで、地面が崩れ落ちるほど怖いことだ。自分のことじゃない範疇で誰かがもしくは親しい人が自分に対してキレてきたり悲しんでたりするというのは、当事者としては本当に辛いことで、その辛さすらまた忘れてしまうんだという自責があって、その自責すらまた忘れてしまうんだというどうしようもなさがある。何事も当事者にしかわからない辛さがあり、中でもこのADHDの健忘や若年性認知症は独特のものがあって、当事者も関係者もみんな辛いよなと思う。

長くなったけどつまり、あの漫画を読んでみて欲しい。

障害か否か

一応書き添えるのだけれど、発達系の話でいつも付きまとう外野の声として「それって誰でもあるじゃん」「そんなこと言ったらみんな障害者だよ」みたいなのがあると思っていて。

もちろん診断を取りたかったら、もしくは取る必要があれば取りに行くに越したことはないけれど、「自分って発達では?」「自分ってアスペルガーでは?」「自分ってADHDでは?」「自分って鬱では?」これらの疑問を抱くに至った「当事者」の当事者たりうる辛さというのがわからない人間たちの声が前述のものだと思っていて。

疑問を持ったということは概ねそうなのだろうと野生のADHDとして思っている。あとは診断取る取らないは個人の自由だし、診断とってる人に対して「自分は診断受けてないんだけどADHDでして〜」という表現をするか否かは配慮の問題で。疑問を持たざるを得ないしんどさがあるという事実が全てな気がしている。

だから前述の人生イージーモード側の方々がおっしゃっておるであろう「そんなん言ったらみんな障害」系の話は聞かない&見ないようにしている。もちろん、楽観的になりたい時にはいい言葉だけれど、のっぴきならぬ現実には到底力にならない言葉だ。当事者には寄り添うしかないし当事者は当事者としてそれでもなお、生きるしかない。