とある日、父親が若年性認知症になった人の漫画で号泣の巻(吉田いらこさん)&ADHDの考察その1

若年性認知症

ご存知でしょうか。高齢者が発症する「認知症」が65歳未満で発症した場合にこのような病名がつきます。

素人の雑調べでは原因はこんな感じで

素人の雑調べでは初期症状はこんな感じらしい

1番イメージがつきやすい教材映画として「私の頭の中の消しゴム」という韓国映画を観ていただけるといいと思う。恋愛映画と思っている人が多い印象だが、これは間違いなく若年性認知症の教材映画だと思っている。

https://www.netflix.com/jp/title/70241153?s=i&trkid=258593161&vlang=ja&clip=81502579

ちなみに私はこの映画をもう何十回も観てるけど毎回泣いてしまう。一口には語りきれない壮絶な病。それが若年性認知症だという認識。

ぜひ読んでほしい漫画

https://x.com/irakoir/status/1220907731772567552?s=46

こちらのリンクから旧ツイッタランド(現X)のツイートが見られます。1つのツイートのコメ欄に連なって漫画が読めるようになっているので、ぜひ多くの人に全部読んでみてほしい。私の頭の中の消しゴムは、金銭的余裕があって施設もあって入れたケースだが、本漫画は真逆だ。真逆ゆえに見えてくるものや、ただただ各人の事実が目の前に大きく横たわっていて誰もそれを形容なんてできないという重苦しさから、わずかに見える「人間の人間たりうる強さ」みたいなものがたまに輝いて切ない。

これは吉田いらこさんという漫画家の方が書かれた「実体験」だそうだ。壮絶だな…と誰かがリツイートして流れてきたので、三度の飯よりツイッタランドの徘徊が好きな私はつい軽い気持ちで明け方に読んでしまったのだ。

だいたい20分かからずして読み切れると思うが、中盤から終盤で声を上げて予期せず大泣きしてしまい、枕がベショベショになってしまった。

ここに感想を書くのも憚られるほどのリアルと各人の心理描写があるので、お時間のある方はぜひツイートで読んでみてほしい。

本になってないのかな〜と思ったのだがこれ自体はツイートで読み切りで本にはなっていない模様。カドカワから一冊出してるようだが、それは他者の経験を吉田いらこさんが漫画にした一作のようで、私は吉田いらこさんの実体験が本で欲しかったので、申し訳ないがカドカワの本は買わなかったすまんな。。(っていうかこのお父様の実体験をコラムとセットで出版すればいいのに…うまく才能をお金に変えて豊かになっていただきたい)

なぜ若年性認知症が個人的に涙腺のツボなのか

一応書いておく。もう認めざるを得ないと思ってるのだが、たぶんぜったい自分はADHDだと思っている。

何度か限界がきたときに診断というかまずは調べられそうな病院を調べたり予約前段階まではいってみたのだが、どこも半年以上待ちで、そこまでして診断が欲しい理由ってなんだっけ?とか、今すぐ救われたい(※)のに半年以上待つってなんだっけ?とか思って毎回予約に至らず、ADHD特有の健忘で見事に綺麗さっぱり忘れきって、荒野で野生のADHDとして生きてきたというのが私という人間である。

(※ 障害者年金取る取らないとか服薬するとかしないとかそういう角度の話ではなく、社会から生活からどうしてもあぶれてしまう“自分”という得体の知れなさを医学として一定レベルの診断を取ることでまずは自分が納得いくことでしか気持ち的にもう生きていけねぇよな…という辛さというかのっぴきならなさが昔は間違いなくあったんだと思う。)

こんな具合なので病理として診断を取ったわけではないし、地獄の日々を荒野で積み重ねることで奇跡的にぼちぼちハックできるようになったので「私はADHDである」という書き方は診断とった人に対して恐れ多くてできないのだけれど、「野生のADHDである」ということは言わせて欲しい。

両親ももちろん診断を受けているわけではないし、私は自分の生い立ちからくる精神の歪みやADHDについて学問として把握したかったので大人になってから大昔に間違って保育士の専門学校に入ったことがあってそこで勉強した程度の知見しか持ち合わせていないけれど、父はガチガチのアスペルガー寄りのADHDで母親はガチガチのADHD(なお天才タイプ)だと思っている。兄はアスペルガー寄りのADHDで、姉は軽めのADHDだと思っている。(兄は自分がアスペルガーである旨を自認している。そして自認するほどに長らく苦しんできた歴史がある。)

そして私はガチガチの(野生の)ADHDで、ルーティン化すると力を発揮するという点や、仕事における人との会話や時系列等においては抜群の記憶力を発揮することや、父からの遺伝があるだろうという点ではアスペルガーも若干入っているであろうと思う。

そして自分は衝動性や多動性が強く、症状としては健忘も強いし不注意もある(特殊な訓練で生きる日数が増えるごとにハックしつつはあるが、相当なストレスと集中力を要して生きている) 。幼少期にはしょっちゅう何もないところで転んで流血していたので私の膝はボコボコで汚い。大人になってからも何度も転けたり階段10段踏み外すとかも日常だったので、今生きてるのが不思議といって本当に過言ではない「野生のADHD」だと確信している。

違和感は5歳ごろから体感としてあって、年齢をますごとにキツくなるという点は他の発達の方々と同じで。特に10代の頃は本当にキツくて(や…20代もきつかったな。。ややや。30代もきついぞ……) 、10代は特に以下のような点で大変苦戦を強いられていた。

  • 待ち合わせ時間に到着できない(体感時計が少なくとも4時間くらい狂ってて、何をどうやっても待ち合わせ時間に着くことができない)
  • 常に急いでいる&慢性不注意なので、事故や生傷が絶えない
  • 忘れ物を常にするので信頼を失う&再購入品が多すぎて経済的に厳しい
  • 驚くほど忘れる。全てのことを忘れる
  • つまり生活が成り立たないので生きていけないのだという絶望感がすごい

めちゃくちゃたくさんあるけれどもひどいものをピックアップするとこんな感じだろうか。野生のADHDは死ぬほど鍛錬したので、30代になってから待ち合わせ時間に到着できるようになったのだけれど、久々に会う友人から「じ……時間通りに来た…」とめちゃくちゃ驚くっていうか引かれたこと(※)を追記しておく。そういうレベルで色々なことが「できなかった」のだ。

(※なおこの人はものすごく前の元彼だった。彼とは相当の年齢差があった。久々に会って茶をしばいた時、今いくら稼いでるか的な話になり、隠すもんでもないしと思いたしか当時の年俸7-800万ということを話した後、以降彼とは一切の連絡が取れなくなった。茶しばいた時に得た様々な情報を分析し推測するに、彼は若かりし頃の野生のADHDで待ち合わせ時間すら守れず平謝りする私が女として好きで、“いいよいいよ”“そんなん想定内だから”といつも相手を許容する側でいる自分という関係性が心地よかったのであって、野生のADHDを飼い慣らしてましてやバリキャリになってしまった私には、人としてもno thank youだぜということで音信不通になったのではなかろうかと考えている。男のプライドしょーもな。なお推測の域を出ない話だ)

つまり、健忘もひどく、これはもう常人ではないと思った私は調べて調べた末に若年性アルツハイマーを疑い病院にかかり「脳萎縮」を検査したのだった。もちろん、当然自分は若年性アルツハイマーなのだろうと一定の確信を持った上で検査しているので、心構えは万全だった。一種の絶望と共にそこには安堵があった。「これで世間に、自分は病気なんですと説明がつくぞ」と。結果脳萎縮はなく、若年性アルツハイマーの診断を受けた方には大変申し訳ないのだが、当時の自分は「え……じゃぁなんなの?」と一段と途方に暮れたことを添えておく。

長々書いてしまったが、つまり私にとって若年性認知症は決して遠い病気ではなく、たまたま脳は萎縮してなかったし、他人には決しておすすめできないレベルで自分を鍛錬し習慣を変えたり仕組みで防いでいるので経済活動に支障をきたしたり,誰かを激怒させて日常的に信頼を失うレベルの健忘からは脱却してると思ってるけれど、なんというかうまく言えないけれどぜんぜん当事者っていうか、遠い話ではないので、だから若年性認知症の話を聞いたり映画を観たりすると決まって泣いてしまう。

忘れるということは自分が自分ではなくなるということで、地面が崩れ落ちるほど怖いことだ。自分のことじゃない範疇で誰かがもしくは親しい人が自分に対してキレてきたり悲しんでたりするというのは、当事者としては本当に辛いことで、その辛さすらまた忘れてしまうんだという自責があって、その自責すらまた忘れてしまうんだというどうしようもなさがある。何事も当事者にしかわからない辛さがあり、中でもこのADHDの健忘や若年性認知症は独特のものがあって、当事者も関係者もみんな辛いよなと思う。

長くなったけどつまり、あの漫画を読んでみて欲しい。

障害か否か

一応書き添えるのだけれど、発達系の話でいつも付きまとう外野の声として「それって誰でもあるじゃん」「そんなこと言ったらみんな障害者だよ」みたいなのがあると思っていて。

もちろん診断を取りたかったら、もしくは取る必要があれば取りに行くに越したことはないけれど、「自分って発達では?」「自分ってアスペルガーでは?」「自分ってADHDでは?」「自分って鬱では?」これらの疑問を抱くに至った「当事者」の当事者たりうる辛さというのがわからない人間たちの声が前述のものだと思っていて。

疑問を持ったということは概ねそうなのだろうと野生のADHDとして思っている。あとは診断取る取らないは個人の自由だし、診断とってる人に対して「自分は診断受けてないんだけどADHDでして〜」という表現をするか否かは配慮の問題で。疑問を持たざるを得ないしんどさがあるという事実が全てな気がしている。

だから前述の人生イージーモード側の方々がおっしゃっておるであろう「そんなん言ったらみんな障害」系の話は聞かない&見ないようにしている。もちろん、楽観的になりたい時にはいい言葉だけれど、のっぴきならぬ現実には到底力にならない言葉だ。当事者には寄り添うしかないし当事者は当事者としてそれでもなお、生きるしかない。