軽々しくパンを作って、軽々しく自分の思考や感情を相手に伝える:ふかふか手ごねパンは人を幸福にするよ!

軽々しくパンを作る

最近、朝起きて手ごねのパンを焼くのがブームだ。配合は以下

強力粉200g
塩3g
砂糖20~30g
イースト4g
牛乳130cc
バター15g

注意点は以下で

イーストが活性化しないので、塩はイーストと離れた位置に置く(一方で砂糖はイーストの餌になるので真横に置く)

・バターはあとで入れるから最初に入れない

・牛乳は40度くらい(計測なんてしない。レンジでチンに指で確認じゃ)

それ以外はもうとにかく雑多にボウルにぶちこんで、手で混ぜる。粉っぽくて不安になってもとにかく混ぜる。このくらいになったら

やっとバターが登場する。別途レンジにぶちこんでゆるめになったバターを2回に分けて入れている。どの記事で読んだかわすれたけど、なんか分けていれるととにかくいいらしい。

バターを入れるとやっと粉っぽさがなくなり、完全にまとまるのでご安心をば。そしたらもう私はボウルから出しちゃう。なぜなら、全体重をかけたり、朝っぱらから気がふれたみたいに「パーン」「パーン」って机に生地をぶち当てながらこねたいからだ。

昨年仕入れた例のスタンディングデスク↓を

elisabane-g.hatenablog.com

2回ほどアルコール消毒して、ここでこねてしまう。作業場も広いし力も入るし清潔だし、最高である。

時間にして10分程度だけどパンパンと気がふれたように豪快に打ち付け、全身をのっけるかんじでこねるのがポイントだ。これでイースト菌を目覚めさせる・・・とかたしかそんな感じだった気がする。野生のADHDは細かいことを気にしていられない。

パンをこねる+朝日=豊かさ

こねていると朝日が窓から差し込んできて、なるほどこれが丁寧な暮らしなのかとどうしようもなく心の豊かさを感じる。まだ起きたての太陽が生地に差し込む。きっと全地域民が起きてはいないだろう澄んだ風を感じる。そして静寂。「明らかに今わたしは得をしている」なんというかそんな気持ちになる。損得勘定が強い人間出身なので、間違いはないと思う。

昔「丁寧な暮らし」アピールをしてくる友人知人親族が心底うざかった時期がある。夜中に死ぬほど働いて終わりがみえないときに、手作りの料理の写真がラインで届いたり、たまの休みで茶しばいて近況を聞いたら「早朝起きて手作りの料理をするのはいいよ」的な啓蒙を受ける。うるせー。。そんな気持ちでいっぱいだった。

ほしいものは買うし時間も買える部分は買う。だから家で何かを作るとかそんなんやらねぇから。そんなことを腹では思っていながらも「テイネイナクラシイイネ〜~」などと上っ面の中身のない返答を繰り返した(当時の友人らすまんな)。・・・・・・実際やってみるといいものである(くさ)

こね終了

さてさて、そんな回想をしばししてる間に、もう生地はできあがる。いい!すごくいい!宿儺様のような口調でひとりで言ってしまう。うん、全然ひとりでも言っちゃう。つるっとしてなめらか。今回はよく膨らみそうだぞという予感がする。

パンの何がこんなにいいのだろうとふと思うことがある。

改めて考えてみると、手作りの場合「粉から個体ができる」という達成感がいいのではないかと思った。まるでそのようにフカフカなものができるはずのないアイテムを、調合し、気がふれるように叩き、こね、そうするとふかふかの個体ができる。しかもうまい。何が起きてるかよくわからない。

とにかく「手っ取り早い明らかな充実感」が得られるのが、損得勘定出身の人間からすると、非常に手っ取り早く自分を満たしてくれるのだと思う。

そしてパンはうまい。もちろん、うまくないパンもある。でもパンはうまくいくともうよくわからないほどうまい。「ふかふかである」「片手で食べられる」「ある程度は保存がきく」この辺も好きだ。仕事でくたくたになるほど働いていたころ、なにかにつけて「あぁ・・・パンがたべたい・・・・」と朦朧と考えていた。

でも、そのころの私の帰路にパン屋なんて営業しているはずもなく、深夜をとぼとぼとやりきれない思いすら抱えられないブヨブヨの思考を抱えながら、パンのことを狂信的に考えたものだ。そのぐらい、パンって救いというか、幸せが詰まっていると思う。

さてさて。上記のようにこねおわったら、ボールに戻して、濡れたフキン的なの(私はないので水で適度に上部を濡らしてラップする)をかけて、一次発酵という「寝かせ」をする。

細かいことはいいのよ。とにかく目安で「2倍」になりゃいい。この「2倍」というのが大事だ。それ以上でも以下でもふくらみが悪くなる。でも細かいことはいい。「だいたい2倍」になりゃいいのだ。だいたい2倍になったら、以下写真のように包丁とかで等分にする。

そして丸める。大事なことは、丸めるときに一か所で結び目を集めてしっかり指で閉じることだ。まぁでもそれがなくともちゃんと焼けるので、細かいことはどうでもいいのだと思う。このタイミングでなかに入れたいものがあれば入れる。そしてベンチタイムという寝かせをする。

(私はベンチタイムに失敗して膨らまないケースが何度かあった。それはやはり冬場の室温が関係してるように思う。わたしはこのお方のブログが大好きだ。↓

どれが好きってもう全記事好きなのだが、とくに↑この記事には影響を受けたように思う。昨年、何もやる気が出ず、まるで定年間際もしくは定年後のやつれたおっさんのように、燃え尽きてしまい、今後の人生でどのように社会性を発揮したらいいのか、社会で何をしたらいいのか全くわからなくなってしまった。

ネトフリや好きな動画を垂れ流しながら、漫然と転職活動をし、内定が出てはうんざりし、人に求められることすらうんざりするのだから、もう何をやってもだめだとふさぎ込んでいたとき、↑名前を申し上げるのもはばかられるほど崇拝してしまっている「このお方」のブログと出会った。

単身赴任サラリーマンのような乾いた部屋でひとりで鬱々としながら、このブログを読んで、心が明らかに潤った。むさぼるように全ての記事を読んだ。最初は「なんだろうすごく潤うな・・・でも自分には無理だけれど」と思っていた。

何度も重ねて読むうちに「わたしもこんな生活がしたいし、このお方みたいに何かを作りたい・・・!」と切望するようになった。バーンアウトしてしまったわたしにとって、それは奇跡のような「うるおい」だった。

少々長くなったがつまり、デロンギコンベクションオーブンで発酵させるのがおすすめだよ、という話(長いわ・・・)このお方の上記記事に詳細は書いてあるのでご覧あれ。決断力が当時落ちていて、買うかどうか(買って使うかどうか)悩みに悩んだすえにわたしは、このお方のおっしゃっている同じ型を購入した。

結果、めちゃくちゃいい・・・!人生「オーブンを予熱させる」という面倒臭さから逃げて全てが芋づる式に億劫になっていたのではないかというほど、予熱時間がほぼかからないということは、ここまですべてを解決して、料理の意欲を上げるのか!というほどである。

いままで何度か買い直して使っていた「石釜ドーム」的なオーブンレンジが、いかに機能として劣っていたかを思い知る。そのぐらいすごい「オーブン」だと思う。(なお、餅も体感的にほぼ一瞬で焼ける)

つまり、少々長くなったが、デロンギコンベクションオーブンで発酵やら焼きやらやったらいいよ、というお話!)

ジャムなども軽々しく作って

さてさて。ベンチタイムもデロンギ様にお任せし、当方は以下のようなジャムを作ってゆく。

減農薬栽培の八朔を購入したので、あまりにおいしく皮もいけるらしいので、これはこれはと思い、こんなこと普通やらないのに、やってしまう。皮は沸騰したお湯で3回にこぼして、実と砂糖と皮を適当に入れてぐつぐつしたら完成。そんな難しいことはしない。とにかくぶち込んで煮込んで終了。

おーーーーー。いいんとちゃう?皮は白い綿をなるべく入れないよう薄目に頑張ったので、苦みも少なめで、しかし香りは強く、酸味もあってよき。それを乗せるんじゃ。(↓ベンチタイム中の生地にのっける。細かいことはいいのだ。乗っけたらまだ大きくなりそうなので、もうちょっと寝かせる)

30分くらいだろうか?こんぐらいのサイズならまぁいいでしょうという感じのサイズになったらいよいよ焼く。

160度で20-30分程度だろうか。まぁその辺は適当だけれど、180はちょっと高すぎる気がする。いいかほりがしてきたらこんな感じで焼けているのだ。

これを幸せと言わずになんと言おう。そとの皮目はパリっと、なかはしっとりなのだ。

これ↑は焼き立てを切った写真。まぁ湯気だらけだからそうなるよねとは思いつつ。

年始に買ったエスプレッソマシーン↓で

elisabane-g.hatenablog.com

頑張ってカプチーノ的なものの失敗作みたいなものも作りながら、間に卵と低温調理した鶏なんかもはさみつつ、実食。口に入る前からうまい。つまり、うまい。

このパンはめちゃくちゃうまいので、本来は何もつけずに食べたくなるほどだ。でもまぁ、身体を考えて今回ははさんだけど、バターも練り込んであるし、何もつけずにうまい。

パンがうまいと大抵のことは幸せになる。手軽な幸せが得られるだなんて、奇跡の食べ物としかいいようがない。

朝の思考。よしもとばななと、人との関係性

さてさて。朝は思考がはかどる。

どうしようか迷った時は大抵夜は寝てしまって、朝起きたてで感じた思考を大事に決断することにしている。迷って夜決めたことはろくな結果にならない。疲れた自分を信じてはいけない。

昨年からうっすら考えていた事案なのだけど、最近すごく考えるのが、縁とか、人間関係の濃度みたいなものについて。私はプライベートで付き合うなら、気兼ねしたくない。

どのくらいしたくないかというと「ホンッッッッッッッッマに」したくない。仕事は致し方ないというか、介入しないと決めているラインがあるし、全員で利益を出していきましょうという集団だから、感情は不要である。(感情をもっているように見せることはある)

でも?だからこそ?プライベートでいらぬ逡巡をしたくないのだ。仕事はまるでチェスのようで大変疲れる。摩耗で減ってしまうのだ。プライベートでも逡巡する関係性だったら、それはもう「友達」ではない。それが、ここ数日の朝に至った思考をかき集めた結論だ。

特に「デジタルの相性」というものがあるような気がしている。オーラルコミュニケーションならそこまで違和感ないのだけれど、デジタルになると一気に嫌だなこの人、みたいな。

もしくは、相手が疲弊してる?のか、何かしらわたしの言動が気に障った?のか、連絡が著しくつきづらくなる人も一定数いる。

つい仕事のくせで、そういうとき、私は脳内にフローチャートを出してしまう。相手が気に障った可能性のある私の言動や、それに応じた相手の思考や行動、行動パターン。一通り思考したうえで「・・・・・やや、もうえぇやろ、あほくさ」と気づく。

時間は有限である。人生も今回は限りがある。自分でははかれない寿命的な側面もある。

限られたなかで、誰に、何に、時間や心を使うのか。これは非常に重要で、なにかしらが「気に食わない」「気に障った」のであれば、非常にシンプルに「それはいやです」「あれはいやでした」「なんでそう思うんだっけ?」「なんでそういう発言にいたるんだっけ?」「それってどういう思考経路なの?」と、私は友人には”気軽に”言う。正確には「気軽に言うように」努力している。

だから「連絡がつかない」ということの理由が私にはわからないし、それを推測するのも酷く疲れるのでもうやめようと思った。事実以外はほぼ無意味だ。

(恐らくではあるが「連絡がつかなくなる系の人」たちは、簡単に相手と線を引いているのだと思う。何度か“連絡先を一掃する系”の元友人らの話を聞いたことがあるが、あたかも「私が相手をしてやる必要はないのよ」と自分に優位性があるような精神状態で、相手との関係性を切る人が多いように見受ける。

無関心であること・無関心であることを良しとすることは、いずれ自分の首を絞めることになる。なぜなら突き詰めると、それは「自分自身に無関心である」ということと同意だからだ。いつか苦しむ機会があればまだいいけれど、ない場合には漫然とした虚無感や孤独感で晩年を過ごすことになりがちなので、人間関係において簡単な選択は避けるに越したことはないというのが私見だ。)

他者や物事に介入することは大変疲れる。けれど、自分が「この人はわたしの友達」と決めた相手に対して、介入できないのであれば、時間にも行為にも意味が全くなくなってしまうと思うし、それこそ「上っ面」であって、自分のコミュニティや社会性や価値をどんどん狭める行為になると思っている。それらが狭まった人の老後がいかに苦しく侘しいものかを私は知っている。

だから、違和感や不快感があれば、素朴な疑問として聞くというのはとても大事なことだと思う。もちろん労力はいるけれど、そういうことなしには、いつまでたっても自分の心の器や価値は拡がらないと思うのだ。

note.com

よしもとばななが好きだ。

正確には「好きな作品とそうでない作品がある」だけれど。Noteは手軽で読みやすいので、軽々しくNoteでいろんな情報収集や思考のアップデートをするようにしてるのだけれど、↑この作品?実体験?(おそらくエッセイも書く方なので、実話とフィクションが混在していると思うのだが)がすごく良かった。表現や単語や形容詞が、すごくささるものがあって、全体的に好きな読み物だなと思った。

特に、植物状態になった“正雄“の祖母が

ぜひ来てやって。私たちも淋しいから。正雄にゆかりのあることをしていたいのね、ずっと。途切れずに。

というところは何度も読み返した。まさにいまの「音信不通になりがちな/なった”友人”だと思っていた人たち」のことがよぎった。

途切れずに誰かと交流し続けたい。見せられない部分はあっていいし価値観も当然異なっていいんだけど、互いの思考や発言に違和感があったらちゃんと「それってなんで?」って聞ける間柄でいたいしその程度の勇気は持ちたい。

そのうえで、相手が自分と異なる思考経路や思考や感情を抱いていたって全然かまわなくって、でも相手を理解する、自分の違和感を気兼ねなく問う作業は続けたい。そして相手にもその気兼ねなさをもっていてほしい。問うてもらう際には言葉は選んでもらわなくて構わない。

自分の望まない思想や思考や感情を遮断することの弊害

そんなことを思い続けた昨年と今月。

相手のことを「切る」的な行為は楽だ。ラインなんてブロック機能があるし、オンラインならどのようにしたって、自分から遮断ができる。何度も協議というか思考の交換をし続けて、この人の思想や思考は危ないかもしれないと思ったり、嫌悪感があとを引き続けて、どう頑張っても尊敬できなくなった人で、残念ながら友人をやめる決断をしたことが私にもある。

(何度も思考の交換をして、疲れたり怒ったり開き直ったりいろいろしながら、十年以上も思案したので、本当はよくなかったかもしれないけれど、ヨシということにしている事案だ。)

でも、すごく安易に手軽に「音信不通」という名の意思表示をしないということは決めている。

過去にも現在にも、それを正当化する友人知人が少数派だが複数いるのだけれど、それを公に正当化する友人(たとえば、電話帳の一掃をこないだして~笑。とか。)には「それはすごくカッコ悪いことだよ」と安易に言うようにしている。(切るとか切らないとかそういう発言や発想や尺度や習慣が、だ。)

きっと何の疑問も違和感も持たずに「自分に利益をもたらす人間とそうでない人間」を仕訳して(そもそも人間関係を利益の有無で判断していて)連絡先を定期的に消している=ブロックしているのだろうから、そういう人間に何をいっても、どこまで届くかは不明だ。

でも私はそれを平然と言う「友人」とも付き合いを切らさない。困っていたらいつだって連絡してきてくれて構わないし、困っていなくても気が向いたら茶しばかないか?と連絡してしてきてくれて構わない。

相手が困ってたら私は軽々しく助けてあげたいと思うし何ができるか不明だが、物や金をあげる以外のことで、できることは何でもしてあげたい。

それは「私がどう思っているか」「私が伝えたいことを伝えているか」という点にこだわっているからであって、突き詰めると相手がどうか?ではないのだと思う。もしその「切る」順番が、たとえいつか私にまわってくるのだとしても。