バリラでカルボナーラ:人間関係の変化と自分が自分であることの因果

“変わる”はしんどい?

最近より顕著なのだけど、人間関係の入れ替わりというか、濃淡の変化というか、そういうのが早くなったなと。

濃も淡もいずれにしても、だいたい「あ、この人はあの時の私のあの発言で興味を削いだ(抱いた)んだろな」というのがだいたいわかるようになってきた。(確認のしようがないが、たぶん当たっている気はしている。)

昨年くらいまでは迎合していた、もしくは迎合していることすら気付かぬほどそれが張り付いていたから、淡な人間関係もしくは、自分と本来的には抜本の考え方が異なるのに仲良さげな雰囲気が続いていた、みたいな関係性が謎に多かった気がするのだけれど、自分という人間が分かりつつあって、自分が心地のいい表現や対応が無理なく徐々にできるようになってから、長く続く必要のない関係性は相手から自ずと距離をとってくれるようになって、きっと私がバージョンアップの時期なんだなというかなんというか。

最初は「な…なんなんだろう(⌒-⌒; )すんごい最近そういいこと多いぞ。。」と少々動揺したけれど、ややや、これは明らかに捗っているのだと感じるようになった。逆に「あぁもうあのひととは関係性薄くなるんやろな〜寂しいけど致し方ねぇな〜〜」みたいな人と予期せず親密になったり、過去の経験と集積データからは読み取れぬ変化が多く、これって非常にいいんじゃないかと思う。

ずっと変化していたい。生きてる以上肉体はどうしても老いるけど凝り固まることなく決めつけず、自分がいい方向と信じる方面へ進んでいたい。

変化は辛い。それは良く変わる場合もそうだ。安住が楽だからだ。自分自身のたまのバージョンアップはしんどいけれど、こうして見えてくるものが変わるのはいいことだなと思う。もっといろんなことを知りたい。物事の本質を知りたい。知りたいし体感したい。その欲望は昔から変わらない気がする。

その上で、何度も同じこと言ってるけど、私自身は相手が変わっても変わらず友達でい続けようと思いたいと思う。大きく距離を取られようが、親密になろうが、スタンスは同じ。苦しい時はいつでも気兼ねなく話してほしいし、精神的に頼ってくれて構わないし、疎遠になっても思い出したように連絡をくれて構わない。人間はそんなに強くない。そんな感じ。

とにかくカルボナーラ

そんな気分だ。狂ったようにカルボナーラを作ってる。噂のバリラに手を出してしまい、なんならフィットチーネバリラを大量購入したら、もうカルボナーラ一択でしょうということで。飽きがこない。こなさすぎて怖い。

なんかもう美味すぎてよく意味がわからない。その割に簡単だし何が起きているのか。基本的にパスタソースは我らがストウブ(staub)様で作る。そこに固めに茹でたパスタをドーンと入れてストウブで馴染ませる。最後に卵。最高である。誰かこのカルボ沼から救ってほしいくらい、食べてる。

年々、飲食店の質が下がってるよな〜と思う。外食ガチャが激しい。だからいつも手を抜かず、普通に美味しいを大切にしてるとこしか行かないのだけれど、物価高の影響なのか、そういう「普通に美味しい」店すら陥落していってる印象で…。例えば衛生面が下がっていたり、単順に味が落ちたり。

辛けりゃ値上げしてもらっていいんだよ…!!!といつも思うんだけど、値段据え置きで色々辛いからどこかにガタきちゃいました。そんな感じだろうか。頼むから値上げしてクオリティを担保してくれ…と思うのだけれど、なかなかそうもいかないようだ。

ということでやっぱり家でうまいもん作るのが1番確実だなと思う。料理を終えて食洗機に食器をぶち込んでシンクを綺麗にすると満足度も高いし何より“外食ガチャ”がないのがいい。

同じ夢を見なくなった

最近の変化といえばこれもある。比較的毎日しかも似た夢を見がちという体質?睡眠の質の低さ?があったのだけど最近これがなくなった。

もちろん夢自体は見るのだけど、以前のように、ハラスメントで辞めた職場の夢を見たり、乗りたい電車に乗れない夢を見たりすることがなくなった。

職場の夢に関しては、目覚めると「まだ自分は他者の評価にしがみついてるのか…」と絶句しつつ、もう誰の評価も依存しない自分になりたいと切に願うという後味の悪さというか、向こう岸まで泳ぎ切らなければという切実さがあったのだけど、自分が自分でいていいとわかった今日このごろはそんな夢も一切見なくなったな。電車に乗れてるのかもしれない。

 

(スーパー余談だが、↑そんな夢を見ていたころの暗ーいスーパー下書きを発掘したので稀有な方はどうぞ)

自分の中のこのどうしようもない暗さっていったいなんなんだろうなぁと思うことがある。誰も寄せ付けない誰とも接点を持ちたくないという暗さが、ある。

明るいねと言われることがある。色々経てるんですがねと思うけどまぁ褒められてるしいいだろうと感謝をしておく。何気なく人生の闇ボックスから一個だけ闇トークをしたりすると大変驚かれたりする。やや、ぜんぜんまだ闇の在庫ありますけどねなどと思う。いったいどうしたというんだ。人間の評価なんてそんなもんだ。単一的で表面的。でもそれを、それらを、自分の構成要素を全てわかってもらう必要なんてたぶんない。でも表面的な評価をされるとなんというかすごくこうざわつく。とんでもなく暗い人間ですよと。

暗さからは誰も救えないなといつも思う。それは自分の身に起きた出来事だけではなく、周囲で見聞きする全てに対して思う。いつも立ち上がるのは、這い上がるのは自分自身で、どれほど手を引いてあげても、立つつもりのない人や這うつもりにない人は、どうしてあげることもできない。だからいつも、自分の中にはありえない底力があることや自分が幸せになりたいと思っているし思っていいんだということを、どうか信じてほしいなぁと願ってしまう。それは祈りに似た切実な思いで。

最近あまり寝れてなくって、昼寝して起きたら夕方になっていて暗い気持ちでこれを書いている。昨日まで左の扁桃腺が腫れて痛かったのが治ってて、右に口内炎ができててひどく痛む。左右バランスの取れた人間になりたい。しかも夢では以前働いてた外資でまた働いてて、あなたはとても優秀だと以前のくそパワハラ上司に言われて浮かれながら目が覚めた。

どうか私、誰の評価も頼らないで。