朦朧と到着した広島
前回の続き。夜行バスで広島駅に到着したわけだけど、南寄りだからか東京よりはやはり暑くて、思っていたより広島駅はシティ感が強くて、どうしようもない眠気を振り切りながら駅付近のビルの綺麗めのお手洗いへ行きメイクをした。
東京は〜とか広島は〜とか言うつもりはないのだけど、どうしても土地による人の慣習や雰囲気は異なる。驚いたのは広島という地は、東京にはもちろんない、出身地の大阪にもない落ち着いた温かみが人にある場所だなと早々に察知した。
たとえばそれは歩く人の早さも他にはない緩やかさがあって、道幅が広いからか緩やかに見える。話してる人の会話スピードもゆっくり目で、声のトーンも落ち着いてる人が多い。あぁ、夜行バスという近未来の箱みたいなのに乗って、全く違う土地に来たのだという気分になる。
お手洗いのメイク場所でメイクをしてると、清掃の方がいらしたのだけど、まず、すごく丁寧に声をかけてくれることに驚く。その声のトーンや声の掛け方もやはり街行く現地の方々と同じ感じで、こういう土地なんだなと早速ものすごい気分がいい。鉛のような心身から、清浄な心身へ戻してくれたような気がして、こんなたった、たったこんな「小さな」ことなんだよなと再認識する。
自分はマイノリティだとか、自分は浮いているかもとか、あらゆる緊張状態に晒されてると思う時とか、そんな時に「ちょっとした親切な言動」が自分の周囲にあるか否かで、人は安らいだりする。そういうのが圧倒的に社会に足りてないよなと感じる。特に不思議なのは、会社という組織になると集団心理が働き「目の前の人が安らぐかどうか」という観点も当然のようになくなる。その人が安らげば、新たな効果も出るのに、そういう些細だけど大きなものが当たり前のように失われていく様は、底の空いた樽にミルクを注ぎ続けるのと似てる。
とにかく安らぎのスイッチを入れてくれた清掃の方に心から感謝しつつ、腰掛けられる場所で友人へ手紙を書く。これから会う友人だ。その友人に会いたくて広島に来たと言っても過言ではないのだけれど、そういうと重く感じられてしまうかもしれないし、でも何か自分ができることをしたいと思うと思わず手紙を書いてしまいがちだ。
この数日何を書こうかずっと考えていて「歩き出す人」というワードがずっと心にあって、それをテーマに散文的なポエム的なものを書いてみたりした。それなりの時間になったので、平和公園に行こうと思いバス停付近の乗務員さんに声をかける。
「あのう、テレビとかで見る慰霊碑的なところに行きたいんです…!」
なんという酷い言葉なのだろうと気付いていながら、時間的に焦ってしまってたりもして酷いことを聞いてしまった。それってまるで「アイドルを見たいんです!」みたいなことと同意語で若干消えたくなった。
気を取り直してバスへ駆け込む。
新たな街へ行くと街並みに触れることでチューニングされてゆくように感じる。
チンチン電車が走っている。広島はなかなか降り立てないと言い訳を続けてきた地だ。戦地が苦手だ。大きすぎる悲惨さに対峙できなくなる。実直に対峙したいという願望に心が見合わないというか、誰かの悲惨さに寄り添うときもものすごくパワーを要するように、それが土地とか国とかいうレベルになると真摯に向き合うには時間が要るとか「何かがいる」と思ってきた。(思い込んできた)
そして広島は私の父が生まれた地でもあって、父は幼少期にすぐ生みの親に捨てられて施設で育ち、養父に引き取られてまた捨てられて施設で結局育つという、細かいエピソードもあげたらキリがないくらいぼちぼち壮絶ではある。依存症は「孤独の病」と言われているが、父はギャンブル依存症で、現在も苦しんでいる。そのルーツがここにあると思うとなかなか足を踏み出せなかった土地でもある。もはや父にとってはなんの思入れもない土地なのだろうけど娘としてはルーツを知らねばという気持ちがなぜか昔からずっとあった。だからこそ禁足地として避けてきたところもある。
奇跡の街、広島
そんなこともあり今回が初広島なわけだけど、この土地に一体何が起きたのかとかどのように悲惨だったのかは今までインプットだけはやってきたつもりで知識ばかりがある状態だった。だからこうして昔から存在する電車などを見ると、本当に不思議な気持ちになる。駅前にはタワマンや駅ビルが建っていて、SFみすら感じるし、行き交う地域住民であろう人を見るとなんというか「ものすごい奇跡の人を目撃している」みたいな気持ちになる。
差別的と思われないよう注意しないとという気持ちを抱えつつも、命のバトンを受け継いできた人間の意地と底力、緑が生えているという事実に街路樹にすら感動する。なんて奇跡の街なんだ…何を見てもそんな気持ちになる。広島ビギナーだから許してほしい。そんな気持ちとセットで。
兎にも角にも重いそして遠い
公園前でバスを降りると高い建物が一気になくなって視界が広くなる。そしてコンクリ比率も増える。(もちろん緑もあるのだが)
「重いな…」それが率直な感想で、公園内には緑もあるのだけれどコンクリ箇所や石の箇所が多い。石って物理的に重い。重要な箇所だから石を使ってるのかな、そんなことを考えたりした。だからお墓も石碑も重いから、思いを込めるのにはいいのかもしれないと思ったり。ふと友人(今から会う)が以前「作家の食器でご飯を食べるのが好きなのだが、食べる行為は重い(大事な)ことだから、重い石に乗せるのがいい。そんな感じ」と言っていたのを思い出したりした。
小学生らが大勢いて、この景色も奇跡のようだなとなぜか先人たちの視点で見てしまう自分がいる。石が多いこともあるし視界が広いこともあるし歴史的事実が重いこともあるし、とにかく胸がいっぱいになる。人間とは酷いものだ。そして人間とは強いものだ。だから善性を先立たせたい。そんな祈りに似た気持ちが広島駅からずっと胸を占めている。
遠くに見える原爆ドームはテレビや写真で見るそれとは全く異なって言葉には全くならない。形容できる何かを所持していない。とにかく、記念碑越しの原爆ドームはあまりに遠くてそれは、平和への遠さのようにも感じた。でもここで私が諦めてしまったら全てが終わってしまうから私は絶対諦めないぞと思い立つ足に力が入る。諦めたくない。平和を諦めたくない。絶対に私は傍観者にならない。
けれど遠い。そんなことを至るところの景観に感じる。否,それを考えさせる景観に作られているのかもしれない。
公園は外人で溢れていて、もしかすると公園内の60パーくらいが外人では?という具合だ。観光地でもいい、知るために来てくれることはとても尊いことだ。かくいう私も初めてなので誰目線やねんという感じだが、これは一度はやはり現地に来ないといけないそういう場所なんだなと思った。願わくば日本人に気楽にきてほしい。お好み焼き食べに行こうとかそういう邪な理由でいいから、ついででここにきて欲しい。多量の情報に触れなくていいから、とにかく来てみてほしい。そう思わざるを得ない場所だった。石は重い。歴史も重い。でもとにかく、地球上またとない奇跡の街で奇跡の場所だと思った。
鳥肌が立ったのは、ポツンと灯る炎。鎮魂の意味もあると思う。小さな火なのだけど、その意味と願いが重いなと圧倒されてしばらくずっと火を眺めていた。
祈る
眺め終わってから火の裏手にまわった。「祈りたい」「現地で祈りたい」ずっと願っていたのだけれど、写真スポット化してるのもあって場所を探していたら火の裏手というか実質正面というか、誰もいなくてガランとしていたので、ここしかないなという気持ちで30分ほど祈った。この世から絶対に核兵器が廃絶することそれに伴う身近な平和を叶えるための努力を怠らないという決意とともに、亡くなられた方が早く来世で健康で幸福で長寿で福徳溢れる人生を送れるようにという追善と、日本が2度と戦争をしない、されない国になるようにという強く真剣な気持ちを込めて。
暑いのは火の近くだからではないはずなんだけど、急に陽が照ってきたことや地面が石であることやもしかすると自分の思いや歴史的な事実の重さもあって、祈ってる間もずっと身体が暑かった。もちろん当時の方々はもっともっと熱かっただろう。
公園内には水場がたくさんあって、きっと亡くなられた方々への配慮も込めているのだろうと思うのだけど、実は川に囲まれている場所だというのを歩いて初めて知って「あぁ…ここがせめて水に囲まれていて本当によかった…」そう心から安堵したりした。(もちろんこの川という水場も当時はなんの役にも立たなかったことは知っているが、今この鎮魂の意を込めた平和公園の近くに川が流れてくれてて、せめて本当によかった。そんな意味だ。)