外人には勝てない、心は外人でいこう

外人へのあこがれ

外資系企業で勤めていたころ。様々な人種の方がいたが、平均的に思ったのは「外人には勝てねぇな・・・・」ということだった。

まずどう考えても「根アカ」が多い。多いというかそういう人しか職場では観測したことがなかった。「そう見せている」とかではないのだ。あれほどの激務、そして地位やら名誉やら実力やらズルやらなんでもござれの「闇鍋」のような会社で、精神が病む前兆すらなく、とにかく「ぼく今日も生きてるよ!うれしいでしょ!ありがとう!」的な雰囲気を毎日感じるのは、もう圧倒的に「幼少期の教育」に我々日本人が敗北していることの証としか言いようがないと感じた。

海外、少なくとも先進国では親による虐待への配慮や、教育環境の提供機会に日本以上に恵まれている。それは「海外ガー」とか声高にいう勢ではなく、事実としてそうだ。だから外国人は自己肯定感が高めなのだろうと推測をしている。(もちろんほかにも腸内環境やら細胞やらいろいろ取り立てて言えることはたくさんあるだろうと思う)

けれど「何がなくても自分は愛されるべき存在である」といういわゆる「自己肯定感」は幼少期で決してしまうので、後天的に同じものを入手するのはなかなか難しい。だから外人は明るい。明るいというかなんというかもう次元の異なる明るさだと思うし、闘志がやばい。

そんなことを考えながら歩いていたら、こりゃ勝てないわ・・・と感じる書初めを見つけた。

・・・・餃子ってどういうことなんだろう。交通量の多い歩道をしばらく立ち止まってじっくり考えこんでしまった。餃子。書初め:餃子。

こりゃ勝てないわ・・・・と根アカを感じざるを得ない、生物としての圧倒的弱者を認めざるを得ない瞬間だった。どう頑張っても私は「初日の出」もしくは字数を考慮して「新春」と書いてしまう人間だ。立ち止まりながらその授業風景を想像し、没入してみた。

何パターンか授業風景を想像したのだが、いずれの書初めでも私は「餃子」と書けなかった。こういうことだ。

からの王将

私の実家:餃子の王将。これは「ダメならーめん」の画像。名前は忘れたが、やたらと王将が去年くらいから押しているらーめん。これはだめ。(なお麺大盛り)

昔ながらのらーめんというのがあって、それがいっとき姿を消した。どういうことやねんというお声が多かったのだろう。復活したのだが、卵は消えてしまった。それでもいいのである。餃子の王将は、どうかしてるほど中毒性のある「昔ながらのラーメン」一択だ。下記はいいラーメン

上記に味玉が入ってこそなのだけれど、まぁもう改悪をなげいても仕方がない。大抵これで手を打っている。あっちのらーめんはやっぱりだめ。そして王将は店舗でクオリティが異なる。高円寺店はうますぎてうなる。空いてるときのほうがキッチンに余裕あるのかうまい。混んでるときはダメ。空いてるときは驚くほどうまい。

春遠からじ

孤独を感じることが少なくなったなと感じる。以前は歩く孤独かよ!!!くらいよりどころがなく、そもそもよりどころを探していた。救えるのは自分しかいないのに、その定義が間違えていることに長年気づけなかった。

最近、人の依存性をキャッチしては嫌悪をしっかり示すようにしている。

「あなたは私ではない、同じように私はあなたではない。誰かにわかってもらおうとするだなんて眠すぎる。社会は厳しい。口ではきれいなこと言っても、だれも心からあなたの気持ちをわかってくれることなんてない。それはあなたが相手を完璧にわかることができないのと同じ。依存性を捨てると決めなさい。そうじゃないと永久にいつまでたっても人生開けないですよ」

そこまで言い切るようにしてる(相談を受けた場において)。春もびびりちらかして花もはじけ散るほどのきつさだ(笑)。でも、年々厳しいことをダイレクトに指摘してくれる人はいなくなる。というかそもそも社会は労力を使うことを嫌う。だから私はめちゃくちゃいいことをしていると思っている。外人か。

 

最近作業はこれを聴きながらやっている。春遠からじ。

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