京アニ放火事件と無敵の人に思う「線の上」の考察

裁判始まる

記憶に新しい京アニ放火事件。36人が死亡、32人が重軽傷という最悪の結果を招いた無職引きこもりの犯人による放火事件だ。発生は2019年7月。まだ4年しか経過していないのかという思いと、4年目にしてやっと裁判かという思いが入り混じる。

訴訟関係者席と傍聴席の間に、警備目的のアクリル板が設置されるなどの厳戒態勢での開廷となり、個人的には経過も含めて注目している裁判だ。

意外と旧ツイッタランドでトレンド入りすることも少なく、ニュースとしても大々的に取り扱われている印象がないのだが、いまこそこの事件と裁判に世の中が注目して、なぜ「無敵の人」ができてしまうのか等について、1人でも多くのひとが考えるきっかけになればと思っている。

予期せぬ最高の結果

当時、救急搬送された犯人を担当した主治医の手記を読んだことがあるだろうか。

news.yahoo.co.jp

ぜひとも多くの人に読んでほしい記事だ(動画はよりリアルなのでそちらもおすすめ) 36人を殺めた人間の命を助けねばならないという葛藤と、殺人犯の命を助けることに対する連日の苦情や脅迫。主治医はギリギリの精神状態のなかで「死に逃げをさせない」という決断に着地し、命を救うことに全力を尽くしていく。

結果として犯人は一命をとりとめ、法廷に立つまでに回復する。そしてこの培養と移植技術は、海外からも注目を集めることとなり、新たな命を救うために一役買っている。当時この治療に携わった医療従事者たちはいまだにPTSDで苦しんでいる。

無敵の人の作り方

ぐぐってもらえればわかると思うが、被告の生育環境はとても良いといえるものではなく、親や養育者との間に愛着関係を築くことができず大人になった。そして社会に出てもなお、被告が「社会とつながりをもって生きていこう」と思えるほどの出来事に遭遇せず、もしくはその機会を自ら捨てるなどして、最終的にはニートで引きこもりを経て「無敵の人」が完成してしまう。

私は「無敵の人」は意外とすぐに完成すると思っている。それはいま自分がニート半年目にして思う体感だ。私自身は高校中退してから少し前までの間、日系や外資などの複数企業で真面目に労働にはげんできた。ここまで長らくニートをやるのは人生で初の出来事で、いったい何がどうなっていくのか毎日実験のように心理を観察している身なのだが、概ねすべてが自分で完結する生活というのは非常に忍耐力がいることで、労働していたほうがよっぽど楽だと思うのが正直な体感である。

ニートには「忍耐力」もしくは、「忍耐している」と感じないほどの没頭できるコンテンツが必要だ。そのコンテンツが切れたとき、ニートは発狂するのではないかと思う。

私自身の場合は「自分がいい加減向き合わねばならない事項」が複数あり、親と良好な関係を築けなかった幼少期のことや、それがどのように環境に作用してきたかや、思考癖や、各種トラウマ、”本当の自分”の所在等々、これらと一度向き合うべくニートになる決断をした。もちろんこれらに向き合わずに時間を溶かすように、ただ毎週毎週「来る土日」に向けて仕事を消化する手もあった。でも現在地もわからず向かう先もわからないという恐怖をねじ伏せるように労働で屍と化して日々を溶かすのは限界だった。

そんなことに向き合わずに誤魔化しながら働くのは一般的な手法だと思う。けれど私の場合は「何かが違う」という違和感は次第に大きくなり、茨の道とわかっていながらも、労働という暴走列車から飛び降りることを決意した。

結果としては前述の通り「社会と接点を持たずに生きる」ことは想像以上にしんどい。これほどしんどいと思わなかったと思うほどに。と同時に、いかに労働で時間を溶かせるのかを知った。考えたくないのであれば労働は最適なコンテンツだと思う。つまり、ニートは無限に考える時間があるので、暮らし方によっては誰でも簡単に発狂できるということを私は言いたい。「無敵の人」は誰でも簡単になれる。

生きていていいかどうか

きっと成育環境が良かった人らは容易に「生きていていい」と思えるのだろうと思ったりする。(もちろんどの界隈にも下には下がいて、そこから這い上がる人も一定数いるとは思う。) 長らく社会生活をしてて感じたことは「自分は生きていていい」と息をするように思える人間は圧倒的強者だということだ。

たったそれだけでスキルがなくとも社会生活として生きていくことができる。そのような歩く自己肯定感みたいなひとに生育環境を聞くと、私調べでは100%、両親がいて、考えたり選択したりすることの余幅が幼少期のころから存在して、愛情をたっぷり注がれて育っていた。

一方私のような「生育環境弱者」は生きていていいかを自分で決められない。デフォルトは「生きていたらだめなんじゃないか」という疑念を自分に抱いている。でも「生きなきゃいけない」もしくは「死ぬのが面倒」だから生きている、そんな感覚だと思う。兄と話すときもよく「死ねるスイッチがあれば何度も押してるよね」という話をする。それは別に私たちにとって大したことではない。「今日は風が強かったよね」みたいな温度でそういう話をする。そのぐらい「生きていてはいけない」という感覚が息をするように日常なのだ。

私は「やりたいことがわからないまま社会生活をしたくない」という理由もあってニートをやっているが、まだまだニートを継続できる環境下にいるものの、なぜだか焦り始めて転職活動をしている。年齢や職歴がボトルネックで、これほどしんどい転職活動はないなという実感がすでに芽生えているのだが、書類の推敲を行う際に(すでに130時間溶かし済み)あーーーーとか、うーーーーーとか、生きていていいって思いたいーーーーとか言いながら作業をしている。

想像つかないだろう。でもそうやって「生きていちゃいけない」「だから生きていていいと思いたい」という自己肯定感レベルの人間が、この世にはたしかに一定数存在する。そしてどうやら被告人にも同じにおいを感じるが、だから人を殺していいとか情状酌量の余地があるとかいう話ではなくて、だれでも「その線」に立っているということだと思う。私もあなたも隣人も、いつだって「その線」に立っている。

陰謀論について

被告人は裁判の中で何度も「京アニに送った自分のアニメが、京アニにパクられた」というような内容を犯行動機として話している。これが統合失調症などの精神疾患からくる妄言なのか、ニートを極めた末の妄言なのかは不明だが、どの場合においても「陰謀論」というものは人間の生命を軽んじるものである気がして、私は辟易する。(それが精神疾患によるものだったとしても、だ。)

少し前に謎の某課金コミュニティに入っていた頃の話。陰謀論についてのブログをつい読んでしまい目を汚してしまったことがあった。ザっとしか読まなかったが、9.11に触れ、陰謀論の可能性を模索するような内容だったように思う。

まじクソどうでもいいなと思った。

非常に底辺で低俗で、知能が低くて薄気味悪くて気持ちが悪くて。たとえそれが、それらが、本当だったとして、だからなんだというのだ?いずれにしたって陰謀論を楽しむ人は、起きた事実をその角度で楽しんでいるような気がしてならず、命への軽薄さにヘドがでそうになる。大事なことは人間によって人間が殺されたという事実であって、陰謀論者はそれらを軽んじる、どこまでいっても知能が低く犯人の次に命への尊敬に欠いている人間のように思えてならない。まじクソどうでもいいのだ。

前述で「被告人の生育環境が悪かった」と書いたが、実はそんな情報もまじクソどうでもいい。どんなことも理由にはならないからだ。世の中にはそんなまじクソどうでもいいこと・奴らで溢れている。みんな「線の上」にいる。